政界進出後
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1991年のアストゥリアス州議会議員選挙では、スペイン社会労働党の地域支部であるアストゥリアス社会主義連盟(英語版)が政権を担い、フアン・ルイス・ロドリゲス=ビヒル(英語版)州首相とビクトル・サピコ産業・貿易・観光大臣の下で、フェルナンデスは鉱業・エネルギー部門の地域局長に就任した。1995年の州議会選挙では国民党に政権を奪われ、フェルナンデスは議員の座を離れて鉱山部門の公務員となったが、1996年スペイン議会総選挙ではスペイン社会労働党から国政選挙に出馬して当選し、スペイン下院議員となった。 アストゥリアス社会主義連盟は1999年の州議会選挙に勝利し、フェルナンデスはビセンテ・アルバレス・アレセス(英語版)州首相の下で産業・貿易・観光大臣に就任した。2000年11月にはアストゥリアス社会主義連盟の書記長(党首)選挙に出馬し、僅差で勝利して書記長に就任した。2003年7月から2012年4月まで、アストゥリアス州議会の上院議員を務めた。 2012年3月に行われたアストゥリアス州議会議員選挙の結果、アストゥリアス社会主義連盟は中道の連合・進歩・民主主義(UPyD)と連立政府を組み、2012年5月26日にはフェルナンデスがアストゥリアス州政府首相に就任した。財務大臣のドローレス・カルセード(英語版)を含む5人の女性と3人の男性を閣僚に登用した。 2015年のアストゥリアス州議会議員選挙でアストゥリアス社会主義連盟は政権を維持したが、アストゥリアス統一左翼(英語版)の支援を受ける少数党政府(英語版)となった。2016年10月1日にはスペイン社会労働党議員による投票の結果、ペドロ・サンチェスが書記長を辞任。同日にフェルナンデスが暫定幹事長代理委員会の委員長に就任した。
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政界進出後(戦前・戦中)
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1928年、信濃毎日新聞を退社して第16回衆議院議員総選挙に茨城3区から出馬するも落選。1930年、第17回衆議院議員総選挙で立憲民政党からトップ当選(以後4回連続当選)。1931年11月21日、安達謙蔵の声明を起草。協力内閣運動の失敗から1932年には脱党し国民同盟に参加した。 第一次近衛内閣発足の数か月前、昭和研究会の支那問題研究会の委員長に就任。1937年6月4日に第一次近衛内閣が成立すると、首相となった近衛文麿は当時全く面識の無かった風見を内閣書記官長に抜擢。風見は日中の関係改善を目指すが、同年7月7日に盧溝橋事件が勃発した。当時の参謀総長は皇族の閑院宮載仁親王であり、参謀次長今井清と支那駐屯軍司令官田代皖一郎は揃って病床にあったため、陸軍が組織の機能不全の為に戦線拡大に消極的であった。当初近衛内閣は不拡大を唱え7月11日には現地で和平が成立するが、この日の閣議後に風見は朝日新聞、読売新聞ら報道陣の代表者と政財界各方面の有力者を官邸に招く。ここで近衛は内地三個師団を派兵する北支派兵声明を発表、和平交渉を破壊した。この後も近衛内閣は不拡大方針を掲げる一方で、7月17日には1,000万円余の予備費支出を閣議決定。7月26日には、陸軍が要求していない9,700万円余の第一次北支事変費予算案を閣議決定し、さらに7月31日には4億円超の第二次北支事変費予算を追加するなど、陸軍を事変拡大の方向へと圧迫していた。 1940年5月、近衛を党首とする新党の結成を目指す新体制運動を有馬頼寧らと共に開始。近衛文麿、木戸幸一、有馬頼寧の3名が5月26日付で「新党樹立に関する覚書」を作成した際には、既成政党を全て抹消するよう進言している。近衛がこれに賛同し、7月発足した第2次近衛内閣で風見を司法大臣にした。特に立憲政友会(分裂中)・立憲民政党の2大政党に内紛を惹き起こさせて同党を解散に追い込む政治工作(風見や有馬達はこれを「政党爆破工作」と称した)は、没後に遺族の好意によって歴史学者に公開された『風見章日記』によって知られるようになった。運動が10月大政翼賛会の結成に至ったのちに、風見は12月に大臣を辞任した。書記官長就任以前からの親友であり、書記官長時代に風見が内閣の嘱託に抜擢した尾崎秀実が41年10月にゾルゲ事件で逮捕され、風見自身も証人として検察当局の尋問を受けるなど社会的に苦境に立たされたこともあり、1942年4月の翼賛選挙には出馬せず、その後帰農。
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