戦時の利己主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:07 UTC 版)
早期にアメリカがバルト諸国へのスティムソン・ドクトリンの適用を採択したことで国際法の下での先例が確立された。1940年7月23日における国防次官サムナー・ウェルズの宣言はソ連によって強制されたバルト諸国併合を承認しないことの根拠を定義している。ウェルズの声明にもかかわらず、バルト諸国はすぐに、より大きな強国間の対立の中で手先としての役割を半世紀にわたって繰り返した。1941年から1942年の冬のモスクワを訪問後、イギリスの外相イーデンはすでにバルト諸国を生贄に戦争におけるソ連の協力を確保することを主張している。アメリカへのイギリス大使ハリファックス (Edward Wood) の報告には「イーデンはスターリンを敵に回す危険を冒せない、イギリスの戦時内閣はソ連の1940年の国境を認めるスターリンとの条約の交渉について合意した」とある。1943年までに、ルーズベルトもバルト諸国と東ヨーロッパをスターリンに引き渡した。彼は9月3日のスペルマン枢機卿との会談で「10年あるいは20年でロシア人と上手く暮らすことができることを夢見てヨーロッパの人々はロシア人の支配にひたすら耐えなくてはならない」と発言している。12月1日テヘランでスターリンと会談し、ルーズベルトは「バルト海の3共和国は歴史の中にあり、最近はロシアの一部であったことをよく理解していると話してから冗談のように付け加えたことはソビエト軍がかの地を再占領した時には彼はこの点についてソ連に対して武力に訴えるつもりがないということであった」。1ヶ月後、ルーズベルトはロシアがルーマニア、ブルガリア、ブコビナ、東部ポーランド、リトアニア、エストニア、ラトビアおよびフィンランドを支配することができるとロシアに話したことをオットー・フォン・ハプスブルクに話している。1944年10月9日、チャーチルがモスクワでスターリンに会い、ヨーロッパの戦後の状態がはっきり計画された時点で将来への希望の道が閉ざされた。チャーチルは「終いには私は『我々が数百万人の運命に影響するこれらの問題をそんな配慮のないやり方で決着をつけたと見られれば利己的としか思われないのではないか?書類を焼こう。』と言うと、スターリンは『いや、君が持っていてくれ』と言った」と述べている。ヨーロッパの将来を決定したと広く信じられている1945年2月のヤルタ会談では、基本的にチャーチルとルーズベルト両名のソビエトによる東ヨーロッパ支配への干渉をしないというスターリンとの個人的確約の成文化が行われた。 1975年、アメリカ、欧州諸国とソ連が「調印国は戦後の確立された境界(国境という言葉を避けている)を尊重しなくてはならない」とするヘルシンキ宣言に署名した時、ソ連に対して何らかの有効な干渉を求めるバルト諸国側の望みは消された。アメリカ合衆国などは、ソビエトによるバルト諸国併合を承認しない立場を続けた。今から見れば、バルト諸国の最終的な独立と国境の回復は人権と民族自決を支持したその宣言の正当性を立証していると解釈されているが、ソ連にとってはオーデル・ナイセ線とモルドバ・バルト諸国の両併合を含めた戦後の国境変更を確定した明らかな勝利であった。
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