ヤルタ‐かいだん〔‐クワイダン〕【ヤルタ会談】
【ヤルタ会談】(やるたかいだん)
第二次世界大戦末期の1945年2月、黒海を臨むクリミア半島のリゾート地・ヤルタで行われたアメリカ・イギリス・ソ連の三国による首脳会談。
概要
第二次世界大戦末期の1945年、西部戦線ではアメリカ・イギリス連合軍がドイツ軍を各地で破りながら、ドイツ国境に迫っていた。
一方、東部戦線でもアメリカの支援付きでソ連軍が西進していた。
そんな中、連合軍による総攻撃や戦後処理の基本方針について話し合うために、米英ソの首脳をソ連唯一の保養地ヤルタに迎えた。
最終的には3国首脳の公式声明、ヤルタ協定、ドイツに対する賠償や分割統治、ソ連対日参戦と(千島・樺太など)日本が帝政ロシアから奪取した領土の処遇(ヤルタ秘密協定)、国際連合の設立会議の開催日と開催地などが取り決められた。
現在ではヤルタ会談での取り決めは、大国の世界分割の合意であるという非難の声も大きい。
ヤルタ秘密協定
主に日本に関する処遇について、米英ソの間で交わされた秘密協定。
1944年12月14日、ソ連のスターリン書記長は駐ソ米大使を通じ、アメリカに南樺太や千島列島の領有を要求した。
これに応じる形で、アメリカ大統領ルーズベルトは千島列島をソ連に引き渡す見返りにソ連の対日参戦を促した。
そしてこの秘密協定で、ソ連はドイツ降伏後の2~3ヵ月後に下記のような条件で対日宣戦布告をすることが決められた。
ヤルタ会談
ヤルタ会談
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 00:36 UTC 版)
第二次世界大戦後の世界秩序(同時に戦勝国側の利益配分)を定めるため、クリミア半島のヤルタで催された会談。連合国側の三首脳であるルーズベルト、チャーチル、スターリンが出席している。本作では、三者の会談はそのまま「三麻」になっており、史実通りの勝敗になったようである。
※この「ヤルタ会談」の解説は、「ムダヅモ無き改革」の解説の一部です。
「ヤルタ会談」を含む「ムダヅモ無き改革」の記事については、「ムダヅモ無き改革」の概要を参照ください。
ヤルタ会談
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 05:12 UTC 版)
しかし、1945年2月、連合国のうちソ連とアメリカとイギリスの三国は首脳会談を行い、ソ連が日本へ参戦する計画と、連合国がこの戦争で勝利したあとの世界の枠組みについて議論した(ヤルタ会談)。 この会談の中で、ソ連が参戦するための条件として、ソ連が「クリル諸島(千島列島)」を領有することを首脳らが合意した(ヤルタ協定)。
※この「ヤルタ会談」の解説は、「北方領土問題」の解説の一部です。
「ヤルタ会談」を含む「北方領土問題」の記事については、「北方領土問題」の概要を参照ください。
ヤルタ会談
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 10:08 UTC 版)
「ウィンストン・チャーチル」の記事における「ヤルタ会談」の解説
詳細は「ヤルタ会談」を参照 1945年2月、ソ連領クリミア半島のヤルタでスターリン、ルーズベルト、チャーチルの三巨頭によるヤルタ会談が行われた。ドイツを無条件降伏させ、その後、英米ソ仏で分割占領することがこの会談で取り決められた。当初、ルーズベルトとスターリンは英米ソの三国だけで分割占領するつもりだったが、チャーチルの説得でフランスも入れられることになった。この会談で日本と中立条約を結ぶソ連が対日参戦する密約も結ばれた。 この会談で一番揉めたのはポーランド問題だったが、これは結局ソ連優位で妥協する形となり、ソ連が送る「民主的指導者」がポーランドを統治することが取り決められた。チャーチルは回顧録の中で「これが米英ソの同盟関係を破綻に導く最初の大きな原因となった」と書いている。 また国際連合に関する構想もヤルタ会談で本格的に具体化された。大国の拒否権制度もこの時に決まった。チャーチルも「我が国の帝国主義的利益を守るためには必要不可欠」として拒否権制度に賛成した。ちなみに国際連合はヤルタ会談で開催が決められた1945年5月のアメリカ・サンフランシスコでの連合国会議において正式に創設されている。
※この「ヤルタ会談」の解説は、「ウィンストン・チャーチル」の解説の一部です。
「ヤルタ会談」を含む「ウィンストン・チャーチル」の記事については、「ウィンストン・チャーチル」の概要を参照ください。
「ヤルタ会談」の例文・使い方・用例・文例
ヤルタ会談と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- ヤルタ会談のページへのリンク