日本側の停戦工作への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 07:21 UTC 版)
「ヤルタ会談」の記事における「日本側の停戦工作への影響」の解説
1945年1月6日、アメリカ軍の動きを懸念した昭和天皇が重臣の意見を求めたため、内大臣木戸幸一と宮内大臣松平恒雄が協議して、木戸が拝謁準備を行い、2月になって平沼騏一郎・広田弘毅・近衛文麿・若槻禮次郎・牧野伸顕・岡田啓介・東條英機が順次に拝謁して意見を述べた。そのうちヨハンセングループの吉田茂が支持した近衛上奏文は、連合国との和平調停に向けた人事異動を推奨するものであったが、予定されていたこれら重臣全員の拝謁が終わったのは2月26日だった。 7月には近衛文麿がモスクワに派遣され、ソ連に対し連合国との和平調停の仲介を求めたものの、既にヤルタ協定が行われていたため仲介を拒絶された、と言われている。
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