戦後の供給
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中部配電管内においては、戦時下の戦災・疎開に伴う需要減に終戦に伴う軍需産業の消滅が重なって終戦直後に大幅な電力需要の減少をみたものの、これは短期的な現象に留まり、平和産業の復興や民需の増加によって間もなく需要回復に転じた。1947年度には年間販売電力量が戦前のピーク水準(1944年度の年間販売電力量24億3927万キロワット時)を回復。その後も需要増加傾向は変わらず、3年後の1951年度(昭和26年度)の年間販売電力量は1.35倍増の33億3491万キロワット時に達した。その一方で、資材・資金不足によって戦時下と同様に電源開発が停滞し、また戦時下の酷使が祟って既設発電所も故障が頻発する状況にあったため、戦時下のような電力不足状態が再燃した。 1945年11月、工事中に終戦を迎えていた旗鉾発電所(岐阜県・出力2000キロワット)が完成した。戦後に中部配電が完成させた発電所はこの1か所のみである。このように自社供給力の拡大が限定的であったため、戦後の需要増加には日本発送電からの受電量増加によって対処することとなった。1950年度の年間自社発電量は9億414万キロワット時であったが、日本発送電からの年間受電量はこれの4倍近い34億1151万キロワット時に及んでおり、自社発電量はその他からの受電を含めた社内全体の発受電電力量のうち2割を占めるに過ぎない。 火力発電所は戦後も伊勢湾の3離島(日間賀島・篠島・佐久島)で稼働していたが、燃料の入手難から本土の系統と連系する工事が着手されて1947年2月18日より海底ケーブルを使った離島送電が始まった。これにより日間賀島の発電所は廃止。篠島・佐久島の発電所は予備設備として残されたものの、発電実績は皆無となった。 電気料金については、戦後のインフレーションに伴い頻繁な値上げがあった。戦後における中部配電の料金改定は1946年1月・同年4月・1947年4月・同年7月・1948年6月・1949年12月の6度にわたる。ただし電気料金抑制という国策は戦後も継続されており、頻繁に値上げされてはいるものの当時のインフレーション水準を超すものではなかった。
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戦後の供給
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終戦を挟む1945年度の年間販売電力量は前年度からほぼ半減の12.6億キロワット時となり、以後徐々に増加したものの、1950年度でも販売電力量は23.5億キロワット時に留まり戦中の水準を回復することはなかった。こうした終戦直後の需要落ち込みはその後短期間で解消されるのが全国的傾向であったが、北陸配電では戦中の筆頭需要家のアルミニウム精錬が終戦とともに消滅したこと、金属工業から化学工業(特にカーバイド工業)への転換が遅れたこと、それらへの電力割当の法的制限が発動されたことなどが要因で、供給量の回復に時間を要した。一方で、電灯供給は戦時下の灯火管制がなくなり電熱利用も増加したことから、戦後の販売量は戦中のおよそ2倍に増加している。 販売量と同様に発受電電力量も1950年度までに戦中の水準を回復することはなかった。まず自社発電量については、1948年度から1950年度にかけては戦中と同水準の年間6.6億キロワット時を維持した。この間の1949年(昭和24年)12月、福井県の九頭竜川水系にて足羽発電所(出力3,000キロワット)が運転を開始しており、以後発電所数は計68か所、総出力は10万4,249キロワットとなった(以降、電気事業再編成まで不変)。日本発送電においても発電所の新増設が進められ、同社北陸支店管内の発電所総出力は82万2,070キロワット(他に火力1万キロワット・ただし運転わずか)に達した。だが日本発送電から北陸配電への供給量は戦中よりも少なくなり、北陸支店管外への送電量が増加した。特に電力不足が目立った1947年度には全体の7割超が管外供給に充てられている。 戦後の電力不足に伴う電力制限については、1946年(昭和21年)8月から法的制限が発動された。11月には「電気需給調整規則」が制定され電力制限の方法が定められ、翌1947年(昭和22年)12月からは規則改正に伴い政府の経済安定本部が決定する電力割当制が始まった。この当時、食糧増産の国策を背景に化学肥料工業(アンモニア工業やカーバイド工業など)が盛んになり需要の回復が進みつつあったため、北陸でも電力不足が生じている。 1948年(昭和23年)6月28日に発生した福井地震では、家屋の罹災に伴い配電設備に大きな被害が出たほか、福井・石川両県の発電所計15か所が一時運転不能になり、多くの送電線・変電所が損壊した。被害額は788万円に及ぶ。震災に続く7月の豪雨でも発電停止や出力減退などの被害が生じた。
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