戒厳令布告
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この頃の中国共産党指導部は、保守派の長老によって総書記の座に選ばれたものの、民主化を求める学生らの意見に同情的な態度を取った改革派の趙紫陽総書記や胡啓立書記などと、李鵬首相や姚依林副首相らの強硬派に分かれたが、5月17日にゴルバチョフが北京を離れるまでの間は、この様な事態に対して事を荒立てるような政治的な動きを見せなかった。 5月16日夜、趙紫陽、李鵬、胡啓立、喬石、姚依林の5人の政治局常務委員会が開かれ、学生たちの要求する「四・二六社説」の修正について話し合われ、趙紫陽は修正に賛成、李鵬は反対したため、決着しなかった。 5月17日午後に改めて、党長老で事実上の最高権力者である鄧小平中軍委主席に加え楊尚昆国家主席を含めた会議が鄧小平の自宅で行われたところ、戒厳令の布告について趙紫陽と胡啓立が反対、李鵬と姚依林が賛成、喬石が中立の意見を表明し、5人の政治局常務委員会は割れた。 政治局常務委員ではない楊尚昆が賛成を表明した後、政治局常務委員会による投票をすることなく、鄧小平は以下のように発言し戒厳令の布告を決定した。 「事態の進展を見ればわかるように、4月26日付社説の判断は正しかった。学生デモが未だ沈静化しない原因は党内にある。すなわち、趙(紫陽)が5月4日にアジア開発銀行の総会で行った演説が原因なのだ。今ここで後退する姿勢を示せば、事態は急激に悪化し、統制は完全に失われる。よって、北京市内に軍を展開し、戒厳令を敷くこととする。」 — 鄧小平 これに対し、趙紫陽は以下のように述べ、戒厳令の発動を拒否したため、鄧小平は李鵬、楊尚昆、喬石の3人を戒厳令実施の責任者に任命した。 「決定を下さないよりは下した方が良いけれども、今回の決定が招くであろう深刻な事態を大変憂慮している。総書記として、この決定内容を推進し、効果的に実行することは私には難しい。」 — 趙紫陽 5月19日午前5時頃、趙紫陽は当時党中央弁公庁主任を務めていた温家宝を連れて、ハンガーストライキを続ける学生を見舞う中で涙を見せ、学生たちの愛国精神を褒め称え、「諸君はまだ若いのだから命を粗末にしてはいけない」と、迫りつつあった流血の惨事を避けるために、学生たちにハンストの中止を促したが、学生たちには真意が十分に伝わらなかった。 しかし、趙紫陽の演説は学生たちに歓迎され、拍手は止まなかった。5月20日、鄧小平は自宅で非公式会合を開き、趙紫陽の解任を事実上決定した。その後、6月19日の政治局拡大会議で「動乱を支持し、党を分裂させた」として、趙紫陽は党内外の全役職を解任され自宅軟禁下に置かれ、これ以降政治の表舞台から姿を消した。 5月19日午後10時、党中央、国務院が中央と北京市党政軍幹部大会を開き、戒厳令布告の発表を行った。党中央、全人代、国務院、中央軍事委員会、中央顧問委員会、中央紀律検査委員会、全国政協と北京市の副部長級の幹部および、党中央弁公庁、国務院弁公庁の局長クラスが出席した。趙紫陽は「体調不良」により欠席することが大会を主催する喬石から伝えられ、趙紫陽に割り振られていた講話は楊尚昆国家主席が担当した。まず李錫銘北京市党委書記が北京市の状況を説明し、続いて李鵬が戒厳令の必要性を訴える講話を行った。 これ以降は保守派によって戒厳令体制の強化が行われることになったものの、23日には戒厳令布告に抗議するために北京市内で100万人規模のデモが行われるなど、事態は沈静化しないばかりか益々拡大して行く。また、政府による戒厳令の布告を受けて、日本やフランスをはじめとする多くの西側諸国の政府は、自国民の国外脱出を促すようになった。 こうした中、カナダを訪問中の全人代常務委員長の万里が、「改革を促す愛国行動」と学生運動を評した発言を5月17日付けで新華社が報じたことで、学生たちだけでなく社会全体に希望が生まれた。全人代常務委員らが万里の出国前に6月20日前後となっていた常務委員会の繰上げ開催に奔走し、李鵬解任要求や戒厳令反対の機運が高まりかけたものの、万里自身は北京には戻らず「病気療養」のため上海に入り、江沢民を説得役として変心させた。 2日後、万里は党中央の決定に対し一転して「支持」を表明する。 武力介入が避けられない状況となったことで、知識人らは学生たちに撤収を促したものの、地方から集結した強硬派が多数を占めた学生側の話し合いで反対票が9割を超えたため、撤収は不可能となった。 5月30日には、天安門広場の中心に、ニューヨーク市の「自由の女神」を模した「民主の女神」像が北京美術学院の学生によって作られ、その後この像は、民主化活動のシンボルとして世界中のメディアで取り上げられた。また、この頃香港や中華民国(台湾)、アメリカ合衆国など、国外の華僑による民主化推進派支援の活動が活発になっていた。
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戒厳令布告
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李承晩政権の意を受けた官製団体や政治ゴロによる国会解散や国会議員リコールを要求するデモが日増しに激しくなり、緊迫した政治状況が続いていた5月25日、政府は「慶尚南道、全羅南道、北道一帯に潜伏している共産ゲリラを掃討する」との名目で、釜山市を始め周辺23郡に非常戒厳令を布告した。翌26日には、国会議員50名余を乗せたバスが丸ごと憲兵隊に連行されて「国際共産党の秘密工作費を用いて「政府革新全国指導委員会」の設立を謀議した」との容疑で幾名もの議員が検挙あるいは逮捕された。このような緊迫した状況に乗じる形で院外自由党に支配されていた七道議会は29日までに国会を解散することを決議し、新聞報道も26日からの事前検閲によって規制された。 政府による弾圧が日に日に強まる中、野党議員は逮捕された議員全員の釈放を決議(28日)するなど抗議の意思を示し、副大統領の金性洙も反対の意思を示すために副大統領職を辞任(29日)した。これに対し、自由党(合同派)は6月3日から、国会が民意に従わず外国勢力に依存しているとして、国会出席を拒否した。更には李承晩大統領を支持する御用団体による国会解散要求デモが続いているにもかかわらず、国会を警備していた警察隊が再訓練を理由に撤収してしまった。一方、6月20日、民国党を中心とする野党勢力が開催した「反独裁護憲救国宣言大会」が暴漢に襲撃され中止に追い込まれる事件が、続く6月25日には朝鮮戦争記念行事式典で李承晩大統領に対する狙撃未遂事件が発生するなど、政局は一層緊迫状態となった。
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