市営化の実現
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「静岡市営電気供給事業」の記事における「市営化の実現」の解説
1910年3月30日、逓信省から静岡電灯に対し、四日市製紙からの受電を電源とした電灯供給および動力用電力供給事業について認可があった。これにより、市営化案の懸念事項であった電源転換が明確化され、市営化計画を再検討する条件が整う。また同年6月に李家に代わって高知県で県営電気供給事業の経験がある石原健三が静岡県知事に着任して県知事の援助を期待できるようになり、さらに8月の豪雨で市西部が被災したのを機に市営電気事業の利益をもって下水改良や道路整備をなすべきという市民の声が起きて、電気事業市営化実行に向けた機運が高まった。情勢の変化を受けて9月20日、市会は市会議員・参事会員と市民から電気事業市営に関する調査委員を選任して再調査を開始。そして10月中旬に調査委員から静岡電灯の事業市営化を適当と認める報告書を受け取った。 1910年10月29日、市会において電気使用条例や電気事業市営に伴う市債発行についての審議が始まった。4月の選挙で当選した一部議員から反対意見が出されるが、12月12日市債案一部修正の上でこれらの議案は市会で可決された。市会通過を受けて直ちに国への認可申請の手続きが採られ、翌1911年(明治44年)1月27日付で逓信省から静岡電灯の事業譲受けに関する許可を取得。市債起債は25日付、電気使用条例は2月1日付でいずれも内務省・大蔵省から許可された。起債額は事業買収資金13万円に事業拡張資金を加えた23万6000円で、東京海上保険による引き受け、年利6.2パーセント・償還期間10年という条件であった。 諸手続きの完了を受けて市は静岡電灯との間で事業譲渡の日付を1911年2月28日と定め、同日付で電灯供給設備一切の引継ぎを完了した。同日をもって静岡電灯は会社を解散。そして翌3月1日より静岡市営電気供給事業が開業するに至った。半年後の8月末、四日市製紙が芝川に建設していた大久保発電所(出力1,792 kW)が運転を開始したため、9月1日より市営事業の電源は四日市製紙からの受電に転換された。 静岡市では市営供給事業開始と同時に、業務を担当する「静岡市電気部」を下魚町に設置した。この段階での庁舎は仮庁舎であり、宝台院境内にあった旧静岡電灯事務所をそのまま転用したものである。本庁舎は6年後の1917年(大正6年)2月末、市中心部の追手町44番地5に完成、3月1日より同所での業務が開始されている。また市には電気部の業務監視や商議にあたる機関として参事会員・市会議員・市民より各1名を選任して組織する「電気事業常設委員」も設置された。
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市営化の実現
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静岡電灯が緩やかに事業を拡大する中、静岡県東部では水力発電を電源とする電力会社の開業が相次いだ。まず1901年(明治34年)に駿豆電気(後の駿豆電気鉄道)が設立され、熱海電灯を統合したのち1903年(明治36年)より沼津・三島への供給を開始する。1908年には富士郡大宮町(現・富士宮市)に設立された富士電気が大宮町や同郡吉原町(現・富士市)への供給を開始。さらに製紙工場への電力供給を目的とした富士製紙の傍系会社富士水電が1907年に設立され、富士川水系芝川に発電所を完成させて1909年10月に開業した。また富士郡に工場を持つ四日市製紙は自社で直接電気事業に乗り出し、庵原郡富士川町や工場周辺への供給を始めた。同社の開業は1909年5月のことである。 こうした電気事業の発達に刺激され、静岡市では電気事業を市で経営することで収益を上げ財政基盤強化に繋げようとする動きが生じた。市営電気事業起業の発端は、市会議員の青木宗道(静岡電灯元支配人)が1907年2月市会に市営事業の建議を提出したことにある。3月にかけて市会による調査が進められ、四日市製紙や静岡電灯との間で交渉も持たれたが、現段階では市営電気事業実現は時期尚早との結論に至り起業の動きは一旦停止した。その後1909年になり静岡電灯との交渉が本格化し、静岡県知事李家隆介らを交えた交渉の末に、静岡市が13万円で静岡電灯の資産・権利を買収すると決定された。また市営電気事業の電源に関する調査も進められ、供給に名乗りをあげた富士電気・富士水電や四日市製紙といった事業者の中から最も安い電力料金を掲示した四日市製紙からの受電を決定、市の意向に沿って静岡電灯は1909年9月に四日市製紙と受電契約を締結した。 こうして静岡電灯の事業市営化に向けた手続きが進んでいたが、その情報が新聞などを通じて広まると市当局の交渉過程が不透明だという批判が沸騰した。議会外での批判を他所に10月4日市会が市営化案を可決すると反対運動は一層の拡大をみせ、「市営反対静岡市民会」が組織されて市長・助役・参事会員・市会議員に対する辞職勧告が提出されるという事態に陥る。その一方で10月6日、静岡市と静岡電灯との間で事業譲渡契約が締結され、27日には静岡電灯にて臨時株主総会で契約を承認するという手続きも完了した。しかし市当局と市民会の交渉は県知事や商業会議所の調停・斡旋にもかかわらず難航し、最終的な裁定を委ねられた県知事によって10月30日、市会の市営化決議が否認されて市営化問題は一旦白紙化された。 1910年3月30日、逓信省から静岡電灯に対し、四日市製紙からの受電を電源とした電灯供給および動力用電力供給事業の認可があった。さらに静岡電灯は7月16日付の株主総会にて10万円への倍額増資を決議している。9月になると市営化実現の動きが再開され、市会議員・参事会員のほか市民からも臨時委員を選んで電気事業市営化に関する検討が始まる。このころになると、8月の水害発生を機に電気事業の収益を財源とした下水改良や道路整備を求める声が強まっており、反対運動が前年よりも緩和されていた。臨時調査委員によって10月に市営化を適当と認める報告書が提出されると市営化準備が本格化され、翌1911年(明治44年)1月27日付で逓信省から事業譲渡の認可も下りた。2月、電気事業のための市債発行が市会で承認される。買収価格は13万円のままで、買収資金と事業拡張資金の調達を目的に市は年利6.2パーセント・償還期間10年の市債23万6000円を発行している。 1911年2月28日、静岡電灯から静岡市への事業引継ぎが完了、同日をもって静岡電灯は会社を解散した。そして翌3月1日より静岡市営電気供給事業が開業するに至った。半年後の8月末、四日市製紙が芝川に建設していた大久保発電所(出力1792キロワット)が運転を開始したため、9月1日より市営事業の電源は四日市製紙からの受電に転換された。
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