峠の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 14:36 UTC 版)
山本方面から、伴方面へ向かう道の途中にある。この峠は、古くから伴方面の住民たちが山本方面へ往来するのに利用した道で、山本街道と呼ばれ、古代山陽道との繋がりもあったとされる。また、加計・湯来方面から広島への近道でもあった為、広島城築城の際に、加計・湯来方面の木材が、筏に組まれて太田川を下った帰路に、筏乗りたちは、この道を利用したといわれている。 大正に入り、一般庶民の交通手段として、自転車が普及してきても、伴方面の人々は、大町方面を回るのと時間的に大差がない為、特に当時の学生や商売人がこの峠を通行したという。しかし、昭和に入ると急速に往来が減少し、現在では、火山や丸山を縦走する人が利用する程度である。
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峠の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 07:00 UTC 版)
今は登山者や林業関係者しか訪れない静かな峠であるが、かつては相模の中川・箒沢集落と甲斐の道志・馬場集落とを結ぶ交易路として利用されていた。相模側から馬場(ばば)へと越えたことから馬場峠と呼ばれている。一方、馬場集落からは白石沢支流のザレノ沢(ザレ沢)に越えたことから、ザレ峠とも呼ばれてきた。 現在、中川側の峠道はザレノ沢の崩壊が進み、かつての面影を見ることは出来ない。道志側へは峠の東側にある前大室と呼ばれる小ピークから尾根伝いに馬場集落へと下る登山道がつけられているが、歩く者が少ないため、悪路となっている。
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峠の歴史
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「白石峠 (神奈川県・山梨県)」の記事における「峠の歴史」の解説
今は登山者や林業関係者しか訪れない静かな峠であるが、かつては上峠やお茶煮のコシッパとも呼ばれ、相模(現神奈川県)の中川・箒沢集落と甲斐(現山梨県)の上道志地域とを結ぶ交易路として利用されていた。現在、神奈川側は白石沢沿いに峠まで登山道がつけられ、東海自然歩道の一部として整備されている。山梨側の峠道は廃道となっているが、加入道山の手前から道志へ下る登山道がつけられている。しかし、この道志へ下る道は歩く者が少ないため、やや歩きにくい道となっている。
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峠の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 02:14 UTC 版)
現在の峠は自動車が通行する県道29号線にあるが、人馬だけが通っていた時代の峠は、現在とはまるっきり違うルート上にある。そのころは、背炙り峠(せあぶりとうげ)ではなく、背中炙り峠(せなかあぶりとうげ)と呼ばれていた。江戸時代中期の古文書(正徳四年 畑沢村高反別村差出明細帳)では「せなかあふり峠」、江戸時代後期の古文書(嘉永六年 背中炙峠一件返答書)では「背中あぶり峠」と記されている。また、地域の古い人も「せなかあぶり」と呼ぶことが多かった。 この峠は歴史的に重要な役割を果たしてきた。古代から明治初めまで、宮城県側から山形方面への重要ルート上にあったと言われている。宮城県の軽井沢峠から山形県側に入り、上の畑、六沢、延沢、畑沢を通ってこの峠を越え、さらに山沿いに中沢、新山、湯沢を通って楯岡へ続いていた。やがて、15世紀中ごろから今の銀山温泉の近くで大規模な金・銀の採掘が行われてからは、金・銀の主要な搬送路としてこの峠が使われた。逆に鉱山へは推定2万人が消費する食糧などの日用品もこの古道で運ばれた。 しかし、全国でも屈指の鉱山も17世紀の半ばを過ぎると衰退してしまうが、今度は出羽三山への参詣路として使われるようになり、奥羽地方だけでなく関東地方からも盛んに参詣者が通行した。江戸時代には宿駅制度が始まったが、背中炙り峠を越える道はそのルートには選ばれなかった。それでも背中炙り峠越えが盛んに行われた。しかし、江戸時代の後期になると、ついに宿駅制度の疲労が顕著になり、羽州街道の宿駅と、背中炙り峠を利用する地域の間とで摩擦が生じ、「背中炙峠一件」と言われる代官所での訴訟になった。 現在の古道は一部を除いて通れなくなっているが、それでもはっきりした道の形を残している。人馬が通る道の巾は2mほどで、道の両脇を含めた横断面がU字型に深く窪んでいる。千年間以上も使われた古道に相応しい。古道の峠(背中炙り峠)は、現在の自動車が通る峠(背炙り峠)から南南東の方向へ約500m、標高は430mに位置している。古道は、全般的には尾根上に作られているが、峠に隣接している一部の場所だけは例外で、緩やかな尾根を避けて急斜面の岩盤を削って作られている。その例外となっている尾根には、16世紀半ばから17世紀の初めまで一帯を支配していた野辺沢氏の楯があった。楯を作ってまで守る重要な峠であったようだ。 背中炙り峠には、姥地蔵堂、大きな湯殿山、大日堂、山の神の石仏を見ることができる。古道が盛んに使われていた時代は、地蔵堂が休憩場所になっていた。峠を少し西側へ下ると、旅人の渇きを癒した「弘法清水」が、湧出している。 古道が盛んに使われていた時に、峠の麓にある尾花沢市及び村山市側の集落は、峠越えの荷駄運搬の基地になっていた。今でも、他の地域に比して特別に多い石仏が現存している。江戸時代に造立したと思われる六面幢、一字一石供養塔、馬頭観世音、庚申塔、湯殿山、象頭山、万年堂等の多種多様な石仏があり、古道の通行が盛んであったことを証明している。
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