家族・女性関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 08:35 UTC 版)
雪洲はプレイボーイとして知られ、妻がいながらも幾度となく女性関係を取り沙汰された。雪洲の息子の早川雪夫によると、鶴子との間に子供ができなかったのは、「ほかの女と遊ぶのに忙しくて、鶴子を愛する時間がなかった」からだという。雪洲のプレイボーイぶりは、1910年代にハリウッドで活躍していた時分からで、若い女優たちとの火遊びが噂に上り、三浦環ともロマンスを噂されたこともあった。雪洲と共演経験のある女優のベッシー・ラヴも、雪洲のことを「女たらし」と呼んでいる。 アメリカの女優ルース・ノーブルとの関係は、単なる女遊びでは済まされない問題となった。ルースは1926年に雪洲が舞台『馬賊の王子』を全米巡業した時に、雪洲の相手役として鶴子が見つけてきた10代のイギリス国籍の新人女優だった。雪洲はルースと関係をもち、1929年1月にルースは雪洲との間にできた男児を出産した。その子は雪洲の名を一字とって、雪夫と名付けられたが、ルースは排日感情が激しいアメリカで日本名を付けることは不都合だと考え、出生証明書にはアレキサンダー・ヘイズという名前で記載された。雪洲は愛人との間に子供ができたことをすぐに鶴子に知らせることができず、後にこれを知った鶴子は離婚も考えたが、雪洲の「雪夫をルースにあずけておくことはできない」という一言で離婚を取りやめ、雪夫を引き取ることにした。雪洲の心もすぐにルースから離れた。 1931年、雪洲が『龍の娘』の撮影でアメリカに滞在した時、ルースは雪夫を雪洲の養子とすることに承認していたが、わが子への愛情を断ち切ることができなかったこともあり、養子取り戻し訴訟を起こした。約6か月にわたる裁判の末、雪夫の親権は雪洲夫妻にわたり、雪洲がルースに慰謝料を払うことで解決した。翌1932年に雪洲は日本で仕事をするため帰国し、鶴子は雪夫を育てるためアメリカに残ったが、きちんと話をつけたにもかかわらず、ルースから「雪夫を返せ」と執拗に迫られたため、雪夫を連れて帰国した。しかし、その間にも雪洲は新橋の芸者だった17歳のシズという女性と愛人関係になり、大森に家を借りて同棲していた。鶴子と雪夫の帰国後、雪洲は家族3人で渋谷の大きな家で暮らしたが、それからも雪洲は大森の家に通い、自宅と愛人宅を行き来する生活を続けた。また、1932年と1934年には子供を追いかけるようにしてルースが来日し、雪夫との面会を求めた。シズとの間には、1934年(1933年説もある)に長女の令子(よしこ)、1935年に次女の冨士子が生まれた。1936年に雪洲が渡仏したあと、鶴子はシズに頼まれて令子と冨士子を引き取ることになり、戦後に雪洲が帰国するまで女手一つで3人の子供を育てた。 フランス滞在中の雪洲は、『ヨシワラ』で共演した女優の田中路子と恋愛関係になった。路子もプレイガールとして知られ、雪洲と出会った時はドイツ人の富豪ユリウス・マインル2世(ドイツ語版)の妻でありながら、劇作家のカール・ツックマイヤーらと浮名を流していた。雪洲はそんな路子を見て「外国でこれほど自由奔放に生きる日本人女性はいない」と思い、路子の方も外国でも物怖じしない雪洲に強く惹かれた。雪洲は「妻とは別居中」と路子をごまかし、パリ16区で同棲生活を始めた。2人の恋愛はヨーロッパで有名になり、日本でも世紀の不倫として伝えられた。しかし、恋愛観や男女関係の理想についてお互いが正反対の考えを持っていたことや、雪洲と愛人との間に子供がいることを路子が知ったことで、2人の関係は破綻に向かった。さらにルースがパリまで雪洲を追いかけて来て、雪洲を挟んで愛人同士が鉢合わせしたことが決定打となり、路子は雪洲と見切りをつけた。 1949年10月、雪洲がアメリカを経て日本へ帰国し、鶴子、雪夫、令子、冨士子の家族全員と初めて顔を合わせた。その後、一家は千葉県市川市の大きな借家で暮らし、1953年頃には鶴子に迷惑をかけたお詫びとして、渋谷の初台にある元軍人の邸宅を購入して移住したが、その間にも雪洲と新しい女性との関係が取り沙汰された。1961年にはルースが再び50万ドルを請求する父権認知訴訟を起こしたが、1931年に雪洲夫妻がルースと話をつけた際の書類を鶴子がきちんと保管していたおかげで、雪洲は訴訟を切り抜けることができた。同年10月、鶴子は急性腹膜炎のため71歳で亡くなり、雪洲は大きな喪失感に襲われた。 鶴子の没後も、雪洲の女性に対する興味は旺盛なままだった。鶴子の三回忌が済んだ1964年12月、78歳の雪洲は38歳年下の渡辺黙子(しずこ)と再婚した。黙子は雪洲の友人である日本舞踊家の吾妻徳穂の高弟で、吾妻秀穂を名乗っていた。2人は鶴子の生前から関係があり、1959年にはニューヨークの舞台で共演していた。結婚して最初の2年間は渡辺家の事情で別居し、冨士子の家で暮らす雪洲は両親と住む黙子の家とを行き来していたが、それでも黙子の目を盗んで、若い娘とデートを重ねていたという。 息子の雪夫は放送作家となり、雪洲と同じ太平洋テレビジョンに所属し、雪洲が米内光政役で主演した『激浪』などのテレビドラマで脚本を書いた。1980年代に雪夫は渡米し、ロサンゼルスで『羅府新報』などの仕事に関わったあと、1997年からロサンゼルスの日系文芸同人誌『新植林』に雪洲の伝記「ハリウッド・スター伝説 セッシュウ・ハヤカワ〈天国と地獄〉」を連載し、2001年に死去した。長女の令子は女優の道へ進み、大映のニューフェイスなどを経て文学座の研究生となり、1958年には三島由紀夫夫妻の仲人で文学座座員の有馬昌彦と結婚したが、その後離婚を経てニュージーランドに移住した。次女の冨士子は子役として『レ・ミゼラブル あゝ無情』で雪洲と共演し、周囲から女優としての将来を期待されたが、その後は女優をやめてバレリーナの道へ進み、1963年に結婚した。
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