こりつ‐しゅぎ【孤立主義】
孤立主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 02:19 UTC 版)
孤立主義(こりつしゅぎ、英: Isolationism)とは、第二次世界大戦前までアメリカ合衆国が原則としたヨーロッパ問題に介入しない外交政策で、モンロー主義に代表される非干渉主義のこと。1917年4月、この原則が破られて、アメリカは第一次世界大戦に参戦した。アメリカは協商国(英仏露など)に多額の借款を与えたがそのほとんどが返済されず、5万人以上の若者がヨーロッパ戦線で命を落とし、その結果できあがったベルサイユ体制は、ドイツにだけ責任を押し付けた矛盾があちこちで噴出し、アメリカ国民は幻滅していた。そして、アメリカ国民の80%以上、ワシントン議会の約75%はヨーロッパの戦いには非干渉の立場を取るべきだと考えていた[1]。対独戦争参戦を目論むフランクリン・ルーズベルト政権に対し、1940年9月4日、ヨーロッパ問題非干渉を主張する「アメリカ第一主義委員会」が設立され、同委員会の主催する集会は常に熱狂的な支持者で溢れたが、真珠湾攻撃によって、同委員会は活動を終息し、非干渉主義は一気に雲散霧消することになった[2]。
- ^ 宮崎正弘・渡辺惣樹『激動の日本近現代史 1852-1941』ビジネス社2020年、pp.8-11
- ^ 渡辺惣樹『日米戦争を望んだのは誰か』WAC2020年、pp.1-pp.79
- ^ 宮崎正弘・渡辺惣樹『激動の日本近現代史 1852-1941』ビジネス社2020年、pp.8-11
- ^ “シリア介入:共和党も反対多数 米の「新孤立主義」拡大”. 毎日新聞. (2013年9月22日) 2013年9月22日閲覧。
- ^ “【一般教書演説】中間選挙向け「内向き」姿勢にじませ 中国の脅威には触れず”. 産経新聞. (2014年1月29日) 2014年2月13日閲覧。
- ^ “【正論】「8・15」に思う 「危険な台頭」が迫る日本の覚悟 杏林大学名誉教授・田久保忠衛”. 産経新聞. (2014年8月14日) 2014年8月15日閲覧。
- ^ トランプ・米大統領誕生なら日本はついに戦争に駆り出されるNEWSポストセブン 2016年1月2日
- ^ 安倍首相「信頼築けると確信」=トランプ氏と初会談-1時間半、再会で一致時事通信 2016年11月18日
孤立主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/24 04:05 UTC 版)
「ハミルトン・フィッシュ3世」の記事における「孤立主義」の解説
フィッシュはドイツ国民により親しいアメリカ人の盟友として持ち上げられた。雑誌『タイム』は、かつてフィッシュを「米国一の孤立主義者」 ("the Nation's No. 1 isolationist") と称した。 1939年8月14日、フィッシュはノルウェーのオスロで開かれた列国議会同盟の会議にアメリカ合衆国代表団の総裁として出席し、ヨアヒム・フォン・リッベントロップに招待され途中、ドイツのザルツブルクにて会見した。フィッシュはリッベントロップの私用飛行機に同乗してオスロまで飛んだ。ルーズベルトの前に立ちはだかる強敵であったフィッシュは、ノルウェーでの会議にて、ナチス・ドイツとポーランドとの間に仲裁しダンツィヒ問題を解決することを各国に提言した。 1940年の大統領選挙の直後、フィッシュはルーズベルトに打った電報の中で次のように述べた。「おめでとう。私は国防のために支援することを固く誓う...そしてアメリカが外国の戦争に関わらないためにも。」 ("Congratulations. I pledge my support for national defense... and to keep America out of foreign wars.") 1941年、アメリカ合衆国におけるナチの諜報員の活動を調査していた司法委員会は、連邦議会議員の孤立主義者による演説内容が中に記された(議員特権として無料で送達される)議会郵便物の入った8つのかばんを押収するために、ワシントンの反英国組織 (Islands for War Debts Committee) の本部に職員を派遣した。フィッシュの首席補佐官であったジョージ・ヒルは、職員が到着する直前に郵便物をフィッシュの事務所の収納庫に持ち去った。 大陪審が召集され、ヒルは次の2点について説明するために出廷するよう命じられた。1つ目は、なぜそんなに反英国組織の郵便物について心配していたのか。2つ目は、ナチのプロパガンダ諜報員であったジョージ・シルヴェスター・ヴィエレック(英語版)との密接な関連について(ヴィエレックは後に外国エージェント登録法違反及び反英国組織に資金援助していたことにより有罪判決が下されることになる)。ヒルはそのような郵便物を取り寄せたことはなく、ヴィエレックについても知らなかったと言った。陪審は即座に偽証の罪でヒルを起訴した。 起訴から間もなく、フィッシュはヒルを弁護して次のように主張した。「ジョージ・ヒルは100% O.K.であり、私はジョージ・ヒルを何であれ限界まで支援する。」 ("George Hill is 100% O.K., and I'll back George Hill to the limit on anything.") 裁判中、ヒルはヴィエレックが1940年にキャピトル・ヒルを訪れ、政権の外交政策を痛烈に批判する議会演説の大規模な分配のために段取りをつけたことを説明した。聴聞会の後、陪審は評決に至り、有罪判決が予期されたため、フィッシュは「障害を負い、勲章を受けた第一次世界大戦の従軍兵であり、私の事務所で事務員だったジョージ・ヒルが偽証罪で有罪判決を受けたことを知り、大変残念に思います...ヒル氏はイングランドの家系で...彼は我々の戦争への関与に対して執念を持っていました。」 ("I am very sorry to learn that George Hill, a disabled, decorated veteran of the World War and a clerk in my office, has been convicted of perjury... Mr. Hill is of English ancestry... He had an obsession against our involvement in war.") との声明を発表した。20時間後、陪審はヒルに有罪を宣告した。 1942年の議会中間選挙まで2週間も待たない頃、コラムニストのドリュー・ピアソンの全国に同時に配信された(ワシントン・メリーゴーランドと題された)コラムには、1939年にフィッシュがどのようにしてドイツと関係のある筋から3100ドルを現金で受け取ったのかについての詳細が記述された。
※この「孤立主義」の解説は、「ハミルトン・フィッシュ3世」の解説の一部です。
「孤立主義」を含む「ハミルトン・フィッシュ3世」の記事については、「ハミルトン・フィッシュ3世」の概要を参照ください。
「孤立主義」の例文・使い方・用例・文例
孤立主義と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 孤立主義のページへのリンク