太宰府 観世音寺領
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観世音寺の創建について「続日本紀」が元明天皇の詔として、「筑前の観世音寺は、近江の大津宮で、天下を統べられた天皇(天智)が、後岡本宮で天下を治められた天皇(斉明)のために、誓願して基をおかれたところである。)」(和銅2年(709)2月1日の条)と伝えていることを根拠として、開基を天智天皇とされている。 大宝2年(702) 筑前国上座郡の園地49町を施入大宝3年(703) 筑前国上座郡把伎野他を施入 普門院(ふもんいん) 747年(天平19年)行基によって開かれたと伝えられ、麻氐良布神社の別当寺であった。空海もこの寺に入ったと伝えられる。 当院の正式な名称は広大山神宮寺普門院といい、山号は聖武天皇から賜った勅号という。 医王山 南淋寺 比叡山の僧最澄(伝教大師)は遣唐使から帰国後筑前の山々を訪ね、夜須郡の白山(現在の朝倉市秋月古処山)の麓で霊木を見出し、七体の薬師像を一刀三礼して謹刻され開眼供養を行った。最初の一体を秋月に安置する予定であったが一夜にして七体の仏様は無くなってしまったのである。 最澄は仏のお告げにより上座郡長渕(朝倉市長渕)に最初の一体を見つけその地に南林寺を建立した。大同元年(西暦806年)のことである。 延喜の荘園整理令 902年(延喜2)この整理令以後の荘園を「格後の荘園」と呼び、整理の対象にした。なお、成立の由来がはっきりとしていて、かつ、国務の妨げにならない荘園は整理の対象外としている。 甘木の地名の由来 「甘木」という地名は、この寺「甘木山安長寺(かんぼくざんあんちょうじ)」に由来すると言われている。 延喜二十年(920)、南都よりこの地管理のため移り住んだ甘木安長(遠江守)により創建、地蔵堂には大和国の矢田寺より請来の地蔵が祀られた。 矢田寺は、大海人皇子(天武天皇)が、壬申の乱の戦勝祈願のため矢田山に登られ、即位後の白鳳4年、法相宗の僧・智通僧上に勅せられ、七堂伽欄48カ所坊を造営したのが開基。 杷伎駅 『延喜式』巻廿八兵部省には駅の設置された地名に杷伎の名が登場し、大宰府から豊後への駅の一つが設置されていたと考えられる。 秋月八幡宮 940年に朝廷に謀反を起こした藤原純友(すみとも)の追捕使としてこの地に来た大蔵春実が、神功皇后の旧地とされる宮の丘で戦運を祈願したところ、たちまち純友の乱を平定することができた。大蔵春実はその功績により従五位下・対馬守兼大宰大監に叙任される。946年、この地に武神の守護神として神社を建立。 992年 秋月荘「筥崎宮塔院所領秋月」(『石清水文書』) 長淵荘 上座郡長淵郷(現在の朝倉市長渕)付近にあった。堀河天皇の御願寺・尊勝寺の荘園として成立し、官物のみを国衙に納めるという半輸の形態を採っていた。
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