太宰府 観世音寺領とは? わかりやすく解説

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太宰府 観世音寺領

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 04:07 UTC 版)

朝倉市」の記事における「太宰府 観世音寺領」の解説

観世音寺創建について「続日本紀」が元明天皇の詔として、「筑前観世音寺は、近江大津宮で、天下統べられた天皇(天智)が、後岡本宮天下治められ天皇(斉明)のために、誓願して基をおかれたところである。)」(和銅2年(709)2月1日の条)と伝えていることを根拠として、開基天智天皇とされている。 大宝2年(702) 筑前国上座郡園地49町を施入大宝3年(703) 筑前国上座郡把伎野他を施入 普門院(ふもんいん747年天平19年行基によって開かれた伝えられ麻氐良布神社別当寺であった空海もこの寺に入った伝えられる当院正式な名称は広大山神宮普門院といい、山号聖武天皇から賜った勅号という。 医王山 南淋寺 比叡山の僧最澄伝教大師)は遣唐使から帰国筑前山々訪ね夜須郡白山現在の朝倉市秋月古処山)の麓で霊木見出し、七体の薬師像を一刀三礼して謹刻され開眼供養行った最初の一体を秋月安置する予定であった一夜にして七体の仏様無くなってしまったのである最澄は仏のお告げにより上座郡長渕朝倉市長渕)に最初の一体を見つけその地に南林寺建立した大同元年西暦806年)のことである。 延喜の荘園整理令 902年延喜2)この整理以後荘園を「格後の荘園」と呼び整理対象にした。なお、成立由来がはっきりとしていて、かつ、国務妨げならない荘園整理対象外としている。 甘木地名の由来甘木」という地名は、この寺「甘木山安長寺(かんぼくざんあんちょうじ)」に由来すると言われている。 延喜二十年(920)、南都よりこの地管理のため移り住んだ甘木安長(遠江守)により創建地蔵堂には大和国矢田寺より請来地蔵祀られた。 矢田寺は、大海人皇子天武天皇)が、壬申の乱戦勝祈願のため矢田山に登られ、即位後の白鳳4年法相宗の僧・智通僧上に勅せられ、七堂48カ所坊を造営したのが開基伎駅 『延喜式』巻廿八兵部省には駅の設置され地名伎の名が登場し大宰府から豊後への駅の一つ設置されていたと考えられる秋月八幡宮 940年朝廷謀反起こした藤原純友すみとも)の追捕使としてこの地に来た大蔵春実が、神功皇后旧地とされる宮の丘で戦運を祈願したところ、たちまち純友の乱を平定することができた。大蔵春実はその功績により従五位下対馬守大宰大監に叙任される946年、この地に武神守護神として神社建立992年 秋月荘「筥崎宮塔院所領秋月」(『石清水文書』) 長淵荘 上座郡長淵郷(現在の朝倉市長渕付近にあった。堀河天皇御願寺尊勝寺荘園として成立し官物のみを国衙納めるという半輸形態を採っていた。

※この「太宰府 観世音寺領」の解説は、「朝倉市」の解説の一部です。
「太宰府 観世音寺領」を含む「朝倉市」の記事については、「朝倉市」の概要を参照ください。

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