天安門事件
別名:六四天安門事件、六四事件、第二次天安門事件、天安门事件
英語:Tiananmen Square protests
1989年6月4日に中国・北京の天安門広場で起きた、一般市民のデモ隊と中国人民解放軍との衝突、および、軍の武力行使による鎮圧・弾圧。
単に「天安門事件」といった場合は、1976年に起きた民衆と軍との衝突を指すことがある。日本では普通「天安門事件」といえば1989年に発生した事件を指すが、混同を避けるために「六四天安門事件」あるいは「六四事件」などの呼称が用いられることもある。
1989年春の天安門事件は、中国共産党の初代総書記であり中国の民主化に肯定的・積極的だった胡耀邦の死を契機としている。4月半ばに胡耀邦が倒れると、学生らが天安門広場に集い、胡耀邦に追悼の意を捧げると共に、民主化を訴えるデモ活動を展開した。ほどなく民主化の機運は天安門広場から中国の各都市へと広がっていた。
天安門広場に集りデモに参加した民衆は数十万人規模に至ったとされる。
1999年の5月後半、共産党政府は戒厳令を布告し、報道管制を行った。翌6月、天安門広場に武装した中国人民解放軍を投入してデモの鎮圧に乗り出した。丸腰のデモ隊は銃器で掃射した。装甲車に立ちはだかる者はそのまま轢いたとされる。
天安門広場における武力制圧によって、民主デモ隊は多数の死者を出したとされるが、報道管制の影響もあり具体的な死傷者数は明らかになっていない。
てんあんもん‐じけん【天安門事件】
天安門事件(てんあんもんじけん)
1989年5月ころ、「自由化・民主化」を求める学生や市民が中国全土から北京に集まり、天安門広場を占拠した。普通選挙や表現の自由を求める市民らは、中国政府側との対話を要求し、座り込み運動を続けた。
これに対し、中国当局は同年5月20日に戒厳令を施行し、また6月4日には軍隊を投入した。中国解放軍は戦車や装甲車を使って広場に進駐しようとしたが、これを防ごうとする市民らとの間で、市内各地で衝突した。
抵抗する市民に対しては催涙ガスや実弾が発砲され、双方に多数の死傷者が出た。この際の死者の数についてははっきりとは分かっていないが、西側人権団体の推定では2,000人余りとされている。
事件後、中国当局は自白や密告を募り、事件首謀者を追及した。結果、学生や市民が多数逮捕され、破壊行為を理由とする処刑も行われた。
(2000.05.02更新)
六四天安門事件
天安門事件
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「共産主義の台頭を主題とした映画の一覧」の記事における「天安門事件」の解説
完全版 SUNLESS DAYS ある香港映画人の"天安門"(1990年香・日) 天安門 (The Gate of Heavenly Peace)(1995年米)第二次天安門事件を取材したドキュメント映画。運動に携わった学生や知識人にインタビューしていき、事件の背景に迫っていく。 天安門、恋人たち(2006年中・仏)
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天安門事件
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1980年代を通じて、こうした思想が大学教育を受けた中国人の間で一般化して行った。汚職の増大、経済の混乱、ソ連と東欧の改革に対する反応として、1989年に天安門広場で抗議活動が沸き起こった。一連の抗議活動は1989年6月4日に中国軍により鎮圧された(第二次天安門事件)。これに対して、世界の中国人学生活動家により、多くの民主化支援組織が結成され、西側の国々から共感を得た。 1990年代になると、民主化運動は中国の内外で急速に勢いを失っていった。これは民主化運動に対して中国政府が行った、インターネットや他のメディアで民主化を訴えることを禁じるという厳しい抑圧政策による部分がある。
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