こ‐ようほう〔‐エウハウ〕【胡耀邦】
読み方:こようほう
[1915〜1989]中国の政治家。湖南省出身。1930年共産主義青年団に加盟、1933年中国共産党員となる。毛沢東の死後、1977年に鄧小平が復活すると同時に党中央委員。党の要職を歴任後、1980年党総書記に就任し、翌年華国鋒にかわり党主席に昇進。1986年の民主化運動に理解を示したため、1987年総書記を辞任させられた。フー=ヤオパン。→天安門事件
フー‐ヤオパン【胡耀邦】
読み方:ふーやおぱん
⇒こようほう(胡耀邦)
胡耀邦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/26 13:44 UTC 版)
胡 耀邦(こ ようほう、フー・ヤオパン、1915年11月20日 - 1989年4月15日)は、中華人民共和国の政治家[1]。字は国光、国務院副総理、第3代中国共産党中央委員会主席・初代[注釈 1]中国共産党中央委員会総書記[1]。彼の死が後の六四天安門事件の引き金となった[2]。
- ^ 1982年の総書記制導入以降。陳独秀を初代総書記とした場合は第5代となる。
- ^ a b c d e f g h i 「who's who」(2013年)423ページ
- ^ a b c d e f g h i 朝日新聞(2015年11月21日朝刊)11面「生誕100年 習主席『偉大な革命家』胡耀邦氏を再評価 民主化問題触れず」
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- ^ “中国には意味のあった訪日・チベット対話”. 日経BP. (2008年6月4日) 2017年5月7日閲覧。
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- ^ 『正論』平成13年9月号
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- ^ “中国 日本の自衛力増強に理解 83年の首脳会談で”. NHK. (2017年1月12日) 2017年1月15日閲覧。
- ^ “全斗煥元大統領、訪日前に日本に圧力…天皇、初めて過去の歴史に遺憾表明”. 中央日報. (2015年3月31日) 2019年10月6日閲覧。
- ^ “中曽根氏、中韓を仲介 外交文書で判明「希望伝えてと」”. 朝日新聞. (2017年12月26日) 2017年12月27日閲覧。
- ^ a b “日朝貿易へ「用意ある」 中曽根首相、中国に提起 韓国の国交樹立要望伝達 86年会談、外交文書”. 日本経済新聞. (2017年12月20日) 2017年12月20日閲覧。
- ^ a b “【外交文書公開】胡耀邦総書記「長老引退を」 中国、鄧小平氏と人事で温度差”. 産経ニュース. (2017年12月20日) 2019年11月29日閲覧。
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- ^ a b c d e 田畑(1995年)88ページ
- ^ 稲垣(2015年)103ページ
- ^ a b c d e f 稲垣(2015年)104ページ
- ^ 『産経新聞』2010年4月16日付記事。
- ^ a b c d 稲垣(2015年)101ページ
- ^ a b c d 稲垣(2015年)102ページ
- ^ a b c 朝日新聞(2015年11月24日朝刊)8面「中国国営テレビ趙氏の写真外す 胡耀邦氏生誕100年番組」
- ^ https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/e145c472d856895f95c8155823a7e1c5fae92350
胡耀邦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 07:37 UTC 版)
改革開放の一環として日本との関係を深めることに腐心した。靖国神社を公式参拝していた中曽根康弘は、「向こうの親日派(胡を指す)が失脚されるのはごめんだ」という理由でとりやめたことがある。ただし「日本は誤国主義者原子爆弾は4発投下すべきだった。」と発言し批判を浴びたことがある。
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胡耀邦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 05:54 UTC 版)
『三国志演義』の登場人物のようで、英雄的要素を持ち、度量も視野も広かったと評し、兄弟のような付き合いをした仲だったと述懐している。
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