大化の改新から壬申の乱まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 06:10 UTC 版)
「蘇我氏」の記事における「大化の改新から壬申の乱まで」の解説
645年の乙巳の変において、中大兄皇子、中臣鎌足らによって入鹿が暗殺され、ついで蝦夷が自殺すると蘇我氏の勢力は大幅に低下するが、これはあくまでも蝦夷を嫡流とする蘇我氏宗本家の没落・滅亡だけにとどまり、蘇我氏の氏上は蘇我倉山田石川麻呂の一族(蘇我倉氏)に移っている。また、蘇我氏の宗家(この場合は蘇我倉氏)と蘇我氏同族氏族からそれぞれマヘツキミを輩出するという、推古の代以来の体制も変わることはなかった。孝徳天皇の代に見える21氏33人のマヘツキミの内、蘇我系官人は6氏8人を占め、推古の代以来の割合をほぼ維持している。大化2年(646年)に「良家大夫(タカキイヘノマヘツキミ)」が東国八道に派遣された際には、6人の蘇我系官人が任命された。これは、蘇我氏の権威を利用することが最も説得的であったからであるである。大化の改新後の蘇我系官人の内訳は以下の通りである。 蘇我倉氏石川麻呂(右大臣) 日向(大宰府) 河辺氏百依(東国国司・百済救援将軍) 磯泊(東国国司) 磐管(東国国司) 湯麻呂(東国国司) 麻呂(遣唐大使) 高向氏国押(刑部尚書) 田口氏筑紫(東国国司) 久米氏欠名(法頭・常陸国宰) 岸田氏欠名(東国国司) 麻呂(播磨国宰) なお、境部氏、田中氏、小治田氏、桜井氏、御炊氏、箭口氏は孝徳の代のマヘツキミとしては見えないが、田中氏と小治田氏はその後の律令制成立期に官人を出しており、桜井氏は八色の姓で朝臣姓を賜っているので、境部氏を除けば没落したわけではない。また、蘇我氏出身の女性が天皇の妃となることも引き続き行われ、蘇我氏の血を引く皇族は、奈良時代の半ばに至るまで重要な地位を占めた。 乙巳の変には、傍流である蘇我倉麻呂(蝦夷の弟)の子である蘇我倉山田石川麻呂は、中大兄皇子の協力者として関わっていた。石川麻呂はこの後に右大臣に任じられ、娘の乳娘を孝徳天皇の妃に、遠智娘と姪娘を中大兄皇子の妃にしている。また、石川麻呂の弟の蘇我赤兄も娘の常陸娘を中大兄皇子の妃としている。非蘇我氏系皇族が蘇我氏から何人もの后妃を入れているのは、新政を推進するに足る存在であることを支配者層に承認されるために、母方の親族として、伝統的に唯一の大臣家であった蘇我氏を選んだからである。石川麻呂自身は649年に冤罪で自害し、讒言した弟の蘇我日向も大宰府に左遷させられた(口封じとの説もある)。しかし、他の弟である蘇我赤兄と蘇我連子は、天智天皇の時代に大臣(赤兄は左大臣、連子ははっきりは分からないが右大臣と推定されている)に任じられており、蘇我氏は一定の高い地位を保持し続けている。 連子は天智天皇の正式な即位を見ないまま死去し、赤兄ともう一人の弟である御史大夫の蘇我果安は壬申の乱で大友皇子側について敗れ、それぞれ流罪・自害となった。しかしその甥で連子の子である蘇我安麻呂は、天武天皇の信任が厚かったために蘇我氏の後を継ぎ、石川朝臣の姓氏を賜った。 乙巳の変や、蘇我田口川堀の「謀反(実際は誣告)」、蘇我倉山田石川麻呂の死、そして安麻呂が赤兄や果安とは異なり大海人皇子側についていたのは、蘇我氏内部の対立が原因であると考えられる。 このように乙巳の変後も、倉麻呂の息子達がなお政治の中心的立場にとどまり、相次ぐ政争で衰退しながらもしばらくは蘇我氏(連子の系統)は続いた。
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