大勝館
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大勝館(たいしょうかん、1908年7月13日 開業 - 1971年10月12日 廃業)は、かつて存在した日本の映画館である。
- ^ a b 「MEIJI TAISHO 1868 - 1926: SHOWCASE」サイト内の記事「浅草公園第六区 日本パノラマ館を望む」の記述を参照。
- ^ #外部リンク欄の「だいやす建設」公式サイト内の「会社のあゆみ」の項の記述を参照。
- ^ 日本映画データベースサイト内の「大勝館開場番組」の項の記述を参照。
- ^ 日本映画データベースサイト内の「1912年 公開作品一覧 401作品」の記述を参照。
- ^ “浅草の歴史に長い歴史を刻む演芸館の食事処「大勝館」(東京・浅草)” (日本語). AllAbout (2004年12月9日). 2012年8月14日閲覧。
- ^ 地主は金龍山浅草寺。
大勝館
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「大勝館#戦後」も参照 2002年には浅草の大衆劇場・大勝館の改装を手掛けた。大勝館は1908年に浅草六区に開館して人気を博したが、テレビの普及に押されて閉館を強いられ、買い手のつかない建物がそのまま残っていた。また浅草という土地自体、同じくテレビの普及などで劇場も映画館も相次いで閉館し、時代に取り残されて寂れている状態であった。 2001年夏、浅草で「全国座長大会」が開催された際、日本各地の旅を重ねる大衆演劇にとって、長期公演できる常設小屋がないのが座長たち共通の悩みとして、意見が上がった。同年、大衆劇団・南條隆一座の座長である南條隆が斎藤に「浅草にホームグラウンドとして使える劇場がほしい」と相談を持ちかけた。斎藤にしても、浅草はかつて自分が遊び場とし、成人後も自分で部屋を借りたりして住み続け、学校では教えない教養や人情の機微を教えてくれた土地として、浅草を何とかしたいと考えていたところだった。 斎藤は「駄目でもともと」と2001年5月、ビル所有者の大手建設会社に打診した。しばらく返事がないために望みは薄いと思いつつ督促したところ、7月にOKの返事があり、同年末より急遽、改装工事が着手された。 同2001年の大晦日、こけら落としが行なわれ、ビートたけしら多くの浅草芸人から花が届けられた。斎藤は「本当にやっていけるか、正直心配だった」と語るものの、場内は200の客席が満席だった。その後も連日の大入りとなり、満員のために場内に入れずに帰る客もいたほどだった。斎藤は「これほどの人気になるとは、全く想像もしていませんでした。びっくりしています」と驚いた。 2004年(平成16年)、中日新聞創刊120周年記念キャンペーン「We love Tokyo」(私たちは東京を愛している)の第1弾、地域おこし座談会を開催された。斎藤は、第1回座談会に浅草在住の作家であるいとうせいこう、文化庁文化部長である寺脇研らと共に出席、浅草の活性化について、提言の具体化に向けて動き出していた 斎藤は、大勝館の再生を浅草復興の第一弾と位置付け、将来的には大勝館をビートたけしにちなむ施設にするべく、大勝館の劇場の上に「たけし会館」を作ること夢を抱いていた。しかし2007年(平成19年)に施設の老朽化から閉館を強いられ、その夢が叶うことはなかった。
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