国鉄との対立とスト権スト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 10:30 UTC 版)
「国鉄労働組合」の記事における「国鉄との対立とスト権スト」の解説
マル生運動を切っ掛けとして国労と国鉄当局との対立は決定的なものとなり、1970年代に入るとスト権の回復を名目にストライキを頻発させ、加えて遵法闘争などの闘争も激化させることとなる。既に日本政府は1965年にILO87号条約(結社の自由及び団結権の保護に関する条約)を批准したが、公共企業体等労働関係法(昭和23年法律第257号、略称「公労法」)によって公共企業体職員に認められていなかったストライキ権の承認に関しては保留扱いとなったため、スト権がその後も焦点であり続け国労も最重点課題とした。だが、この行動は国民生活を巻き添えにしたことで一般国民からの反発を招き、遂には上尾事件や首都圏国電暴動のように、乗客による国鉄職員への不満が爆発する形で暴動の発生を招き、社会全体から厳しい批判を受けることとなる。 1974年の春闘で政府と労組側の間で結ばれた「五項目合意」に基づき、1975年秋には政府がスト権問題について結論を出すことが想定されていた。国労が所属する公共企業体等労働組合協議会(公労協)はこれに合わせて、スト権付与を政府に認めさせるべく動き、政府側にもそれを容認する徴候があった。公労協は9月に、スト権問題が山場を迎える時期のスト計画を明らかにする。1975年10月には国会で国鉄の藤井松太郎総裁が条件付きでのスト権付与を表明。これに自民党は反発し、政府もスト権についての結論は出せないとした。これらを受けて、11月26日、国労は動労を含む公労協の他の組合とともに、スト権承認を求める「スト権スト」を起こした。国労書記長の富塚三夫は、ストを進める一方、倉石忠雄らスト権付与に理解を示していた自民党の労働族と接触し、彼らを通じて有利な決着を図ろうとした。しかし自民党内の反発は予想以上に強く、倉石らの意見は党内で封じられることとなる。スト権付与の意向を持っていたとされる三木武夫首相も、党内の状況を受け、12月1日にスト権容認を拒否する政府声明を発表した。 この結果、12月3日に公労協はストの継続を断念した。スト決行にもかかわらず、政府・自民党はトラック運輸業界に事前に働きかけ、スト決行時の輸送を最低限確保する手を打ち、サラリーマンが会社に缶詰状態になり、自宅に帰れない等の事態はあったものの、国民生活や日本経済に大きな影響はなく、国鉄の影響力の低下を表面化させただけに終わった。 これにより、後述の私鉄総連の離反を招き、都市部を中心とする国民が私鉄にシフトしていった。さらには当時は既に、高速道路などの道路網が全国的に整備され、モータリゼーションの到来で輸送コストが安いトラック輸送が台頭していた。したがって、いつストするかわからない鉄道貨物から信頼及びコストの面で、先述のトラック運輸業界への根回しによるトラック輸送活発化の後も鉄道貨物輸送の低迷が続き、大きな爪跡を残すこととなった。これらの事由により、国鉄は大打撃を受けることとなる。 詳細は「スト権スト」を参照 1976年2月、国鉄は違法ストにより損害を被ったとして、国労と動労に202億円の損害賠償を求める訴訟を起こした。自民党は三塚博を委員長とした「国鉄再建小委員会」を組織し、組合批判を強めた。一方、当の国労はセクト間対立が深刻なものとなり、穏健な労使関係の構築を目指す勢力から、公然と革命を主張する勢力までバラバラで、組織としての意志決定能力を失っていった。端的な例が1975年のスト権ストの収拾にあたり、動労と内々に決めていたストライキ戦術放棄の件である。意志決定能力を欠いた国労は「まず動労が決めないと国労は意見がまとまらない」と動労に対し先にストライキ放棄宣言を求めたが、国労側は意見が分裂し結局ストライキ放棄を決めることができなかった。この件で国労に梯子を外された格好の動労は激怒し、両者の路線対立は決定的になる。 一方で、ヤミ休暇、ヤミ超勤、服装規定違反、食事をしながらの運転行為、業務放棄及び横柄な接客態度、酒気帯び勤務などが常態化しており、飲酒による鉄道事故も発生した。 そのため組合活動への非難は決定的なものとなり、国鉄当局も再び労組との対決を迫られていった。
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