呉の中核を担うとは? わかりやすく解説

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呉の中核を担う

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 01:38 UTC 版)

朱然」の記事における「呉の中核を担う」の解説

217年曹操が濡須へ侵攻してくると、朱然は大塢と三関屯の防備にあたり功績により偏将軍の位を与えられた。戦いの後周泰の下におかれることを徐盛と共に不満に思った事もあるが、孫権周泰功績強調したため納得している(「周泰伝」)。 219年関羽討伐戦では呂蒙従い潘璋とともに別働隊の指揮執り臨沮に赴き、関羽生け捕りにするという大功立てている。呂蒙危篤となった際、朱然後継推薦した孫権朱然に仮節を与え江陵守備につかせた。 222年蜀漢興した劉備宜都攻め寄せてくると陸遜と共に防衛に当たり、別働隊指揮して劉備軍先鋒破り、その退路遮断し劉備敗走させた(夷陵の戦い)。この功績により征北将軍永安になった徐盛潘璋宋謙らは永安白帝城)に逃げ延び劉備追撃や蜀攻略求めたが、朱然は魏の曹丕動向不審だとして陸遜駱統と共に慎重論唱え孫権もこれに同意した(「陸遜伝」)。 曹丕の3方面侵攻では江陵防衛に当たり、10万余の魏軍対決する後方孫権全体指揮取り諸葛瑾・楊粲等に命じて朱然救援することになる。曹丕は宛に進駐し、自ら親征軍を指揮し曹休曹真曹仁らに加勢させた。張郃大軍により呉の援軍孫盛敗れ江陵中洲魏軍占拠された。曹真大軍率いて牛渚屯を破ると、夏侯尚は3万人率いて諸葛瑾破り魏軍江陵城を包囲させた。曹丕毎日曹真夏侯尚らに絶え間なく援軍送り向こう岸に渡る。朱然援軍知らず外部との連絡絶えてしまった。一方潘璋・楊粲は包囲網突入できず、江陵城は数重に包囲され孤立無援となり、さらに流行病によって城内の兵は激減し患う多く戦える兵は5000ほどであった曹真らは、土山築き地下道掘り、やぐらを立てると、城壁のすぐそばから矢をのように射掛けた。しかし朱然悠然として恐れる色も見せず、軍吏や兵士たち励まし、敵の間隙窺い、城を出て魏軍包囲網突き込み相次いで魏軍二つ陣地撃ち破り、城に帰って守備固めた包囲半年に及び、朱然の守る江陵破れず、食糧が底をついたため、呉軍からは内通者出たが、朱然内通者存在つきとめ死刑にした。また朱然との江陵での戦いで魏軍からは戦死者数多となり、魏の曹丕曹真夏侯尚賈詡辛毗董昭張郃徐晃満寵文聘らは朱然攻め敗れず、江陵陥落させることができず撤退した。魏の軍勢退却するのを見た呉軍は、水陸二方面から出て挟撃した。魏軍呉軍追撃満潮により撤退中に苦境に陥り、全軍遭難したとある。この攻防戦朱然の名は敵国(魏・蜀)にも鳴り響く事になり、当陽侯に改封された。 226年孫権曹丕死に乗じて江夏攻めたが、文聘動揺せず江夏郡石陽城を堅守した。曹叡援軍に荀禹を派遣して孫権後方撹乱したこともあり、孫権20余日包囲解き殿軍潘璋任せて撤退する夜間撤退途中で混乱生じ文聘はこれを見逃さず殿軍部隊追撃し散々に打ち破った朱然は、すぐさま取ってかえすと敵を食い止め自軍撤退成功したのを見届けてから自身悠々と退却した孫奐江夏郡高城落としたが、文聘朱然阻まれ大戦果を挙げることはできなかった。 229年曹叡三方侵攻石亭の戦い)では江陵の上流で曹休待ち伏せ攻撃の手はずを調えた。石亭での勝利間接的ながらも貢献し車騎将軍・右護軍兗州牧に任命された。後に、蜀との取り決め蜀志陳震伝」参照)で兗州が蜀の管轄になり、兗州牧は解任された。 234年孫権は自ら魏の合肥新城侵攻し朱然全琮とともに左右の督に任命され斧鉞与えられたが、病気流行したため出征計画中止された。 その後孫権呂壱起用し陋習治める。孫権は後に呂壱処刑し群臣達に謝罪したが、朱然歩騭諸葛瑾呂岱らは「自分武官なので国政のことはわからない陸遜潘濬聞いてください」と取り合わなかった(呉志「呉主伝」)。 229年功臣である周瑜の子周胤孫権重用されいたものの、その後数年淫行繰り返し流刑処せられていたが、239年頃より歩騭諸葛瑾周胤赦免嘆願する上表孫権にたびたび送った。このときに朱然全琮ととも同様の上奏をしたという。孫権群臣達の熱意に絆され周胤赦免することに決めたが、周胤が既に病死した。 241年4月孫権大規模な魏領への侵攻芍陂の役)を敢行し、朱然もその作戦一環として魏の樊城包囲し二世武将である呂拠朱異命じて樊城外郭壊滅した(「朱桓伝」)。朱然包囲一カ月以上に及び、魏軍苦戦苛まれ一カ月以上を経って解除ことができない5月皇太子である孫登死去するという大事件起こっており、6月司馬懿到着する前に戦果挙げた朱然樊城から無事に撤退した。また司馬懿は、朱然誘い出そう挑発行いましたが、これは朱然看破されたため失敗終わった242年朱然は柤中へ侵攻した。軍を各地分散させていたところを魏の忠と胡質襲撃されたが、朱然旗本800人だけでこれを退けた243年頃より勃発した呉の後継者問題二宮事件)において朱然動静は明らかではないが、朱績孫和支持していたという記録がある(「呉主五子伝」が引く『通語』)。 244年歩騭連名上疏し、蜀の寝返り備えるよう孫権注意した(「呉主伝」)。 246年朱然上表して、前年起きた魏からの投降馬茂による孫権暗殺未遂事件報復として、再び柤中に侵攻し、魏討伐戦に出る。朱然が柤中に侵入した時、魏住民孫権領内逃げ込んでしまった。曹爽は柤中に出撃して朱然迎え撃ち魏軍大被害被った。柤中で朱然曹爽大い破り万余人以上を斬り、大きな戦果挙げている。曹爽抵抗諦め、柤中を捨てて撤退始めた朱然そのまま追撃続けたが、歩兵騎兵を6千率いた魏の李興退路絶たれたが夜襲をかけて撃ち破り数千余人と5百の敵兵の首を斬り続け、3台の鼓車を得し1000人ほどを捕虜にした。孫権朱然万一失敗したときのために、上奏内容周囲伏せていたが、朱然勝利したのを聞いて大い喜び功績により左大司馬右軍師とした。

※この「呉の中核を担う」の解説は、「朱然」の解説の一部です。
「呉の中核を担う」を含む「朱然」の記事については、「朱然」の概要を参照ください。

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