公家官僚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 04:30 UTC 版)
建武政権の特徴として、変えるべきところは少しづつ変え、変える必要がない部分は変えずに安定性を確保したことが挙げられる。公家官僚である蔵人(秘書官)の人事は、後者の「変えなかった部分」で、後醍醐天皇の父である後宇多天皇の人事をほぼそのまま引き継いだ。公家の高級官僚である上卿(しょうけい)も基本的には同様だが、中には敵対派閥である持明院統派・北朝から移籍してくる上卿もいた。 2014年に杉山巌が、東京大学史料編纂所編『花押かがみ』の南北朝時代編(吉川弘文館、2002–2010年)を用いて、綸旨(天皇の命令書)の奉者(文書発行者)の花押=サインを照合することで、後醍醐の文書行政に関わった官吏の出身を明らかにした結果、父の後宇多天皇の人材とほぼ共通しており、これによって人材プールの安定化を図っていたことが判明した。具体的には、坊門家・一条家(世尊寺家)・六条家・六条家庶流中院家・日野家・吉田家・葉室家などが、後宇多天皇の代から引き続き建武政権および南朝の蔵人として活躍した。中でも目覚ましく作業をこなしたのが吉田光任である。 蔵人に加えて重要な公家官僚が、公卿(大臣クラスの上級貴族)から選ばれる上卿(しょうけい)で、朝廷の案件ごとに責任を持ち、上卿の意見は評定(ひょうじょう、評議)への決定にも大きく影響した。訴訟・陳情の本来の窓口は蔵人や弁官(実務官僚)だが、実際は大貴族である上卿に口利きを依頼する者もいた。 建武政権・南朝で上卿に進むルートは4つあり、もとから大覚寺統派閥の上級貴族の家系だった者、建武政権・南朝内で蔵人や弁官から現場の叩き上げで昇進した者(吉田光任など)、持明院統派・北朝の上級貴族であるが後醍醐を慕って(あるいは家内の政争から)移籍してきた者(藤氏長者近衛経忠など)、北朝内の叩き上げだが上のポストが既に満員だったため南朝に移ってきた者(冷泉定親など)などがいた。 研究史:建武政権と南朝の人員構成の研究が進む以前は、『太平記』などに基づき「後醍醐天皇は朝廷内部に有力な基盤を有しなかったことも弱点」「後醍醐天皇は公家社会全体の掌握に困難をきたしていた」とする見解があったが、21世紀現在は上記のように実証的に否定されている。
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