公家文化としての遊興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 05:19 UTC 版)
武家文化に対し、公家文化は花鳥風月と喩えられる雅や遊び、いわゆる趣味や芸術である。江戸時代に住民が豊かになったことから、余暇を楽しむゆとりができ、このことにより様々な公家文化が、普及し文化や風俗習慣になり、弓矢やそれに類する射的が隆盛を極め、形を変えながら日本の祭り文化やお座敷遊びに根ざしている。 楊弓 主に平安時代の公家が遊興で使用したといわれ、座ったままで行う正式な弓術で、対戦式で的に当った点数で勝敗を争った。後に江戸時代には、的屋(まとや)が営む懸け物(賭けごと)の射的遊技として庶民に楽しまれ、江戸時代の後期には、隆盛を極め、好ましくない風俗の側面まで持つようになった。そして大正時代まで続いたといわれるが、江戸時代から大正に至るまで好ましくない賭博や風俗だと考えられ、度々規制や禁止がなされた。的屋(まとや) 公家の楊弓と祭り矢・祭り弓を起源とし、江戸時代には懸け物の射的遊技が出来た。祭りや市や縁日が立つ寺社の参道や境内、門前町・鳥居前町・遊廓で出店や夜店として大規模な楊弓店、から小さな矢場といわれる小店があり、弓矢を使い的に当て、的の位置や種類により、商品や賞金が振舞われた。矢取り女 江戸後期から矢場や楊弓場に現れた、矢を拾い集める係の従業員で、客の放つ矢を掻い潜って(かいくぐって)行うのが一つの「芸」で、それを客も楽しんだ。時には客の放った矢が当ることもあり、防護として尻に厚い真綿を着けていたといわれる。また店によっては賞品として、矢取り女が閨までともにしたといわれる。矢場女(やばおんな)とも呼ばれる。また矢の回収はいつの時代も女性が行っていたとは限らず、危険な役割から、危ない場所を矢場と言う様になり、危ないことを「矢場い・やばい」と表現し、隠語として使用した。 「的屋#的屋と遊女」も参照 投壺(とうこ) 壺射ち(つぼうち)ともいい、中国で考案されたダーツの様なもので、二人対戦で行う射的。投げ矢を壺に入れる遊戯で、奈良時代に日本に伝わり平安時代まで公家の間で行われた。所作や採点が難しかったので廃れたが、江戸時代には再び楽しまれ、投壺が起源となり投扇興(とうせんきょう)が生まれたといわれる。投壺も投扇興も身分に限らず皆が熱中したので、町奉行所は度々禁止した。詳細は「投壺」を参照 吹き矢 江戸時代の祭り文化の発達と共に様々な露天商が発生したが、吹き矢もその一つで、売り台の上に円形の木製の回転する的をおき、客に吹き矢で回転する的を射抜かせる射的遊技で、的は放射状に区分けされていて、当った場所により景品の良し悪しがあった。現在でもボウガンを使った宝くじ抽せん会やテレビショウプログラムのダーツを使った景品抽選と基本的には同じである。
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