公家法の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 03:45 UTC 版)
公家法の時代には、法のあらゆる分野で、慣習法の体系が重要な法的意義をもつようになった。 荘園制を基礎にして発達した本所法もその一つであるが、地方の行政組織の内部に発達してきた国衙法(こくが)ともいうべき慣習法もその一例である。 国司制度は、基本の形式は平安時代になっても律令法と変りはなかったが、国司の職が封禄と化し、任地におもむかない遥任の国司が増加するにつれて、諸国の行政は留守所あるいは在庁官人が行うようになった。そのさい、国衙領は、百姓名(みょう)が奈良時代の戸に代わって基本単位となっていた。租庸調、雑徭および各種の臨時の賦課も、それに対応した徴収方法を採用しなければならないことになった。特に国衙領の内部に成立した荘園との関係を規制するためには、律令法にない新しい法をつくり出す必要があった。 当時の文書において「当国之例」といわれるような慣習法は、このような必要に基づくものであって、それは本所法とならんで、中世の武家法の基盤の一つとなった。
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