先史時代の染織とは? わかりやすく解説

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先史時代の染織

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/01 21:03 UTC 版)

日本の染織工芸」の記事における「先史時代の染織」の解説

日本列島で、人々染織製品作り始めた時期明確にわかっていない。金属製品土器石器などは長年土中埋もれていても遺存するのに対し有機物である染織品は材質脆弱遺存しにくく、先史時代の染織製品について実物からその歴史たどっていくことは困難である。 日本列島では、織物先行して編物作られていたとみられる縄文時代草創期 - 前期遺跡である鳥浜貝塚福井県)からは編物や縄の断片出土しており、縄文時代前期 - 中期三内丸山遺跡青森県)からは編籠(通称縄文ポシェット」)が出土した縄文晩期遺跡からは間接資料ではあるが、布目圧痕のある土器出土しており、この時代には布製品が生産されていたことがわかる。この時代織物ヤマフジクズシナノキなどの樹皮繊維や、苧麻(ちょま)、大麻イラクサなどの繊維原材料として作られていたと思われる弥生時代前期遺跡である有田遺跡福岡県出土銅戈(どうか)に付着していた平絹片(へいけんへん)が日本最古の絹の遺物とされている。『日本書紀』には、仲哀天皇8年199年)、秦の功満王が蚕種を献ったとある。『魏志』「倭人伝」によると、当時3世紀)の倭国では麻を植え養蚕行っていたという。唐古遺跡奈良県)、登呂遺跡静岡県)など弥生時代遺跡からは織機部品思われる木製品や錘(つむ)が出土しており、吉野ケ里遺跡佐賀県出土甕棺からは絹製品断片検出されている。こうしたことから、弥生時代には日本列島絹織物生産されていたことは確かである。『魏志』「倭人伝」によると、景初3年239年)、正始4年243年)、泰始2年266年)に倭から魏に斑布、倭錦、絳青縑、異文雑錦などを献上しているが、これらが具体的にどのような染織であったかは判然としない。『書紀によれば応神天皇20年289年)に阿知使主あちのおみ父子来朝し大和檜隈で綾を織った。同天皇37年306年)には呉の職工呉織くれはとり)、穴織(あなはとり)が移住したとあり、雄略天皇7年462年)には百済織工・定女那錦(じょうあんなこむ)が来朝し韓様錦を織ったという。このように3世紀から5世紀頃の日本には、中国大陸朝鮮半島から染織関わる工人渡来し技術伝えたことが窺える古墳時代になると、銅鏡刀剣などを包んでいた絹裂が各地古墳から検出されているが、これらはいずれ断片であり、劣化著しく、製作当初どのような製品であったかは判然としない

※この「先史時代の染織」の解説は、「日本の染織工芸」の解説の一部です。
「先史時代の染織」を含む「日本の染織工芸」の記事については、「日本の染織工芸」の概要を参照ください。

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