リューベックのオルガニストとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > リューベックのオルガニストの意味・解説 

リューベックのオルガニスト(1668年 - 1707年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 16:25 UTC 版)

ディートリヒ・ブクステフーデ」の記事における「リューベックのオルガニスト(1668年 - 1707年)」の解説

1667年11月5日リューベック聖母マリア教会英語版)のオルガニストであるフランツ・トゥンダーが死去し1668年4月11日ブクステフーデその後任に選出される3段鍵盤54ストップ備え聖母マリア教会の大オルガンは銘器の誉れ高く、同教会オルガニスト北ドイツ音楽家にとって最も重要な地位1つとされていた。1668年7月23日にはリューベック市民権得て同年8月3日、トゥンダーの娘アンナ・マルガレーテと結婚する。この婚姻就職条件であったかどうか不明であるが、当時としては珍しいものではなかった。 リューベックは、ハンザ同盟盟主として隆盛極めた都市である。1226年神聖ローマ帝国直属自由都市となり、商人による自治営まれていた。ブクステフーデ在職した聖母マリア教会商人教会であり、商人にとって礼拝の場であるとともに会議開催したり、重要書類作成保管する機関としても重要な役割担っていた。ブクステフーデは、オルガニスト同時に教会書記財務管理責務とするヴェルクマイスター(Werkmeister)に任命される。この職務には俸給別途与えられ一般にオルガニスト兼任するものとされていた。ブクステフーデは、教会における物資調達給与支払帳簿作成等、ヴェルクマイスターの任務忠実に果たす。その仕事膨大な骨の折れるものであったが、ブクステフーデは、こうした仕事通して市の有力者との関係を築くこととなる。 一方17世紀後半は、衰退しつつあったハンザ同盟終焉迎えた時でもあった。1669年ハンザ会議には9都市のみが参加し事実上最後総会となる。リューベック経済的不振ブクステフーデ音楽活動にも影響及ぼしブクステフーデ俸給生涯通じてトゥンダー時代のままに据え置かれた。また、聖母マリア教会オルガン故障多くブクステフーデ繰り返し当局修理要求したにもかかわらず十分な修理行われなかった。 聖母マリア教会オルガニストとしての職務は、毎朝の主要礼拝日曜日など祝日午後とその前日夕方礼拝時に会衆によるコラール聖歌隊演奏先導し聖餐式前後音楽演奏する程度であったブクステフーデ音楽家としての手腕を発揮したのは、むしろ前任のトゥンダー時代始まったアーベントムジーク(夕べ音楽、Abendmusik)においてである。ブクステフーデはこの演奏会規模拡大し合唱管弦楽を含む大編成の作品上演するとともに開催日時三位一体節の最後の2回の日曜日待降節の第2-4日曜日午後4時からに変更した。アーベントムジークは入場無料ということもあって高い人気博しブクステフーデ名声リューベック超えて広まる。アーベントムジークの経済的負担決して軽いものではなかったが、誠実なブクステフーデは市の有力者理解支援を得ることができた。市長ペーター・ハインリヒ・テスドルプフは、後年亡きブクステフーデが私に天国のような憧れ予感させてくれた。彼は聖マリア教会におけるアーベントムジークに大いに力を尽くした」と語っている。 ブクステフーデは、大きな旅行をすることもなく、約40年わたって聖母マリア教会職務全うした旅行確実な記録は、ハンブルク聖ニコラウス教会設置されアルプ・シュニットガー作のオルガン鑑定するために、1687年当地訪問したことのみである。しかしながらブクステフーデは、ヨハン・アダム・ラインケンヨハン・タイレクリストフ・ベルンハルトマティアス・ヴェックマンヨハン・パッヘルベル等、当時ドイツ主要な音楽家と関係をもっていた。ヨハネス・フォールハウトの『家庭音楽ひとこま(Hausliche Musikszene)』(1674年)には、ブクステフーデラインケン、タイレと思われる3人の音楽家交流描かれている。また、タイレが1673年出版したミサ曲第1巻』や、パッヘルベル1699年出版したアポロンヘクサコルドHexachordum Apollinis)』は、ブクステフーデ献呈されたものである一方ブクステフーデ師事した音楽家としては、後にフーズム教会オルガニストとなるニコラウス・ブルーンスが有名である。 ブクステフーデ晩年作曲した2曲のアーベントムジークは、その規模の大きさにおいて際立っている。1705年神聖ローマ皇帝レオポルト1世の死を悼み新皇ヨーゼフ1世即位を祝うこれらの作品今日消失しているが、丁重に印刷されフォリオ版のリブレットからは、帝国自由都市リューベック威信賭けた一大イベントであったことが偲ばれるブクステフーデは、これと前後して後継者捜しに苦心するうになる1703年8月17日には、ヨハン・マッテゾンゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルハンブルクから迎えるが、2人30歳に近いブクステフーデの娘との結婚後任条件であることを知ると、興味失ってハンブルク帰ってしまう。また、1705年11月アルンシュタットから訪問したヨハン・ゼバスティアン・バッハも、情熱的なブクステフーデオルガン演奏強く魅了され無断休暇延長してリューベック滞在したが、ついに任地として選ぶことはなかった。結局ブクステフーデ弟子ヨハン・クリスティアン・シーファーデッカー後任推挙し当局に受け容れられる。 1707年5月9日ブクステフーデ死去し5月16日聖母マリア教会で父ヨハネス早逝した4人の娘の傍ら埋葬される。「まこと気高く大いなる誉れ満ち世にあまねく知られた」(ヨハン・カスパル・ウーリヒによる追悼詩)と謳われたオルガニスト最期であった

※この「リューベックのオルガニスト(1668年 - 1707年)」の解説は、「ディートリヒ・ブクステフーデ」の解説の一部です。
「リューベックのオルガニスト(1668年 - 1707年)」を含む「ディートリヒ・ブクステフーデ」の記事については、「ディートリヒ・ブクステフーデ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「リューベックのオルガニスト」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「リューベックのオルガニスト」の関連用語

リューベックのオルガニストのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



リューベックのオルガニストのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのディートリヒ・ブクステフーデ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS