リューベックのオルガニスト(1668年 - 1707年)
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「ディートリヒ・ブクステフーデ」の記事における「リューベックのオルガニスト(1668年 - 1707年)」の解説
1667年11月5日、リューベックの聖母マリア教会(英語版)のオルガニストであるフランツ・トゥンダーが死去し、1668年4月11日、ブクステフーデがその後任に選出される。3段鍵盤、54ストップを備える聖母マリア教会の大オルガンは銘器の誉れ高く、同教会のオルガニストは北ドイツの音楽家にとって最も重要な地位の1つとされていた。1668年7月23日にはリューベックの市民権を得て、同年8月3日、トゥンダーの娘アンナ・マルガレーテと結婚する。この婚姻が就職の条件であったかどうかは不明であるが、当時としては珍しいものではなかった。 リューベックは、ハンザ同盟の盟主として隆盛を極めた都市である。1226年に神聖ローマ帝国直属の自由都市となり、商人による自治が営まれていた。ブクステフーデが在職した聖母マリア教会は商人教会であり、商人にとって礼拝の場であるとともに、会議を開催したり、重要書類を作成・保管する機関としても重要な役割を担っていた。ブクステフーデは、オルガニストと同時に、教会の書記・財務管理を責務とするヴェルクマイスター(Werkmeister)に任命される。この職務には俸給が別途与えられ、一般にオルガニストが兼任するものとされていた。ブクステフーデは、教会における物資の調達、給与の支払、帳簿の作成等、ヴェルクマイスターの任務を忠実に果たす。その仕事は膨大な骨の折れるものであったが、ブクステフーデは、こうした仕事を通して市の有力者との関係を築くこととなる。 一方、17世紀後半は、衰退しつつあったハンザ同盟が終焉を迎えた時でもあった。1669年のハンザ会議には9都市のみが参加し、事実上、最後の総会となる。リューベックの経済的不振はブクステフーデの音楽活動にも影響を及ぼし、ブクステフーデの俸給は生涯を通じてトゥンダー時代のままに据え置かれた。また、聖母マリア教会のオルガンは故障が多く、ブクステフーデは繰り返し当局に修理を要求したにもかかわらず、十分な修理は行われなかった。 聖母マリア教会のオルガニストとしての職務は、毎朝の主要礼拝と日曜日など祝日の午後とその前日の夕方の礼拝時に、会衆によるコラールや聖歌隊の演奏を先導し、聖餐式の前後に音楽を演奏する程度であった。ブクステフーデが音楽家としての手腕を発揮したのは、むしろ前任のトゥンダー時代に始まったアーベントムジーク(夕べの音楽、Abendmusik)においてである。ブクステフーデはこの演奏会の規模を拡大し、合唱や管弦楽を含む大編成の作品を上演するとともに、開催日時も三位一体節の最後の2回の日曜日と待降節の第2-4日曜日の午後4時からに変更した。アーベントムジークは入場無料ということもあって高い人気を博し、ブクステフーデの名声はリューベックを超えて広まる。アーベントムジークの経済的負担は決して軽いものではなかったが、誠実なブクステフーデは市の有力者の理解と支援を得ることができた。市長ペーター・ハインリヒ・テスドルプフは、後年「亡きブクステフーデが私に天国のような憧れを予感させてくれた。彼は聖マリア教会におけるアーベントムジークに大いに力を尽くした」と語っている。 ブクステフーデは、大きな旅行をすることもなく、約40年にわたって聖母マリア教会の職務を全うした。旅行の確実な記録は、ハンブルクの聖ニコラウス教会に設置されたアルプ・シュニットガー作のオルガンを鑑定するために、1687年に当地を訪問したことのみである。しかしながら、ブクステフーデは、ヨハン・アダム・ラインケン、ヨハン・タイレ、クリストフ・ベルンハルト、マティアス・ヴェックマン、ヨハン・パッヘルベル等、当時のドイツの主要な音楽家と関係をもっていた。ヨハネス・フォールハウトの『家庭音楽のひとこま(Hausliche Musikszene)』(1674年)には、ブクステフーデ、ラインケン、タイレと思われる3人の音楽家の交流が描かれている。また、タイレが1673年に出版した『ミサ曲集第1巻』や、パッヘルベルが1699年に出版した『アポロンのヘクサコルド(Hexachordum Apollinis)』は、ブクステフーデに献呈されたものである。一方、ブクステフーデに師事した音楽家としては、後にフーズム市教会オルガニストとなるニコラウス・ブルーンスが有名である。 ブクステフーデが晩年に作曲した2曲のアーベントムジークは、その規模の大きさにおいて際立っている。1705年の神聖ローマ皇帝レオポルト1世の死を悼み、新皇帝ヨーゼフ1世の即位を祝うこれらの作品は今日消失しているが、丁重に印刷されたフォリオ版のリブレットからは、帝国自由都市リューベックの威信を賭けた一大イベントであったことが偲ばれる。ブクステフーデは、これと前後して、後継者捜しに苦心するようになる。1703年8月17日には、ヨハン・マッテゾンとゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルをハンブルクから迎えるが、2人は30歳に近いブクステフーデの娘との結婚が後任の条件であることを知ると、興味を失ってハンブルクに帰ってしまう。また、1705年11月にアルンシュタットから訪問したヨハン・ゼバスティアン・バッハも、情熱的なブクステフーデのオルガン演奏に強く魅了され、無断で休暇を延長してリューベックに滞在したが、ついに任地として選ぶことはなかった。結局、ブクステフーデは弟子のヨハン・クリスティアン・シーファーデッカーを後任に推挙し、当局に受け容れられる。 1707年5月9日、ブクステフーデは死去し、5月16日に聖母マリア教会で父ヨハネスと早逝した4人の娘の傍らに埋葬される。「まこと気高く、大いなる誉れに満ち、世にあまねく知られた」(ヨハン・カスパル・ウーリヒによる追悼詩)と謳われたオルガニストの最期であった。
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