ナイロンザイル事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/17 21:29 UTC 版)
ナイロンザイル事件(ナイロンザイルじけん)、もしくはナイロンザイル切断事件(ナイロンザイルせつだんじけん)は、1955年(昭和30年)1月2日に日本の登山者が[1]東洋レーヨン(現在の東レ)のナイロン糸を東京製綱(現在の東京製綱繊維ロープ)で加工した[2]ナイロン製のクライミングロープ(ザイル、以降ロープと記述する)を原因として死亡した事件。また、それに端を発した日本の登山界での騒動である。
- 1 ナイロンザイル事件とは
- 2 ナイロンザイル事件の概要
- 3 参考文献
ナイロンザイル事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:04 UTC 版)
詳細はナイロンザイル事件を参照のこと。1955年(昭和30年)、日本の登山者がナイロン製のクライミングロープ(以降ロープと記述する)を原因として死亡した。ナイロンは引張りについては従来の麻のロープよりも遥かに丈夫だが、鋭利な岩角などに擦れた場合には容易に切断される。これはすぐに明らかになったが、大阪大学工学部教授で日本山岳会関西支部長の篠田軍治は、事前の実験でザイルが容易に切れることを確認した上で、公開実験ではあらかじめザイルが接触するコンクリート製のかどにヤスリがけをして十分な丸みをつけた状態で、作為的な実験を新聞記者等の前でデモンストレーションしてみせ、ロープメーカーの東京製綱および日本山岳会と共謀して、犠牲者に対する誹謗中傷運動を山岳雑誌・化学学会誌などで長期にわたって続けた。法改正で安全規格が定められ公布されたのは1975年(昭和50年)、最初の事故以降に確認されているロープの欠陥による死者(通産省の調査した範囲内での数字)は、20人を越えるとされる。なお、偽装実験をマスコミの前で実行した篠田軍治は、日本山岳会の名誉会員推薦により、1989年(平成元年)に評議委員会の全会一致で同会の名誉会員になっている。
※この「ナイロンザイル事件」の解説は、「御用学者」の解説の一部です。
「ナイロンザイル事件」を含む「御用学者」の記事については、「御用学者」の概要を参照ください。
ナイロンザイル事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/28 07:33 UTC 版)
詳細は「ナイロンザイル事件」を参照 1955年1月、前穂高岳東壁の冬期初登攀を目指した岩稜会パーティの直径8ミリのナイロンロープ(以下ザイル)が岩角で簡単に切断し、実弟を失う事故に遭遇する。 当時、ナイロンザイルが岩角に弱いという欠陥は、一般には知られていなかった。その後もザイルメーカーらは、欠陥を認めずに、ナイロンザイルに起因する事故が多発した。 以後二十余年にわたって、自らの学識に基づいて実験を行うなど、ナイロンザイルに関する研究活動を展開した。また、登山者の安全のためにナイロンザイルの岩角での弱さをザイルメーカー、日本山岳会が認めるよう、運動を展開した。 1975年、旧・通商産業省は石岡を登山用ザイル安全調査委員とし、登山用ロープの安全基準を世界で初めて設けた。これによって石岡らの主張の正当性は社会に認められた。 1978年、岩稜会は、「社会体育優良団体」として文部大臣表彰を受けた。 鈴鹿高専退職後、石岡高所安全研究所をつくり、一般にも普及したナイロンザイルの切断メカニズムの研究や鑑定、登山器具、福祉器具の開発などに傾注した。 ナイロンザイルの岩角欠陥の究明から始まった研究は、ビル火災の際に高層階窓から安全に脱出できる携帯用自動降下装置や冬期登山の氷結急斜面でザイルパートナーの滑落、転落を止めるピッケル、岩壁登攀中の滑落が転落死につながることを防ぐため登山者が装着する緩衝装置(ショックアブソーバー)などの開発に結実、特許の取得にまで及んだ。 資料は石岡の死後、母校である名古屋大学へ寄贈・寄託された。
※この「ナイロンザイル事件」の解説は、「石岡繁雄」の解説の一部です。
「ナイロンザイル事件」を含む「石岡繁雄」の記事については、「石岡繁雄」の概要を参照ください。
ナイロンザイル事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 09:22 UTC 版)
詳細は「ナイロンザイル事件」を参照 1955年(昭和30年)1月2日、三重県鈴鹿市の山岳会である岩稜会メンバー3人が前穂高岳東壁で登攀中に、新品のナイロン製ザイルが切断し、墜死者が出る事故が発生した。さらに、この事故に前後して2件のナイロンザイル切断による事故が発生しており、ナイロン製ザイルに対して強度・安全面からの不安が持たれることになった。 当時出回り始めたナイロン製ザイルは、従来の麻製ザイルに比べ強度面で数倍し取り回しも容易であるとしてメーカーが普及を進めており、ザイルの製造メーカーの東京製綱は、大阪大学工学部教授で日本山岳会関西支部長の篠田軍治の指導を仰ぎ、同年4月29日東京製綱蒲郡工場(愛知県蒲郡市)において、山岳関係者・新聞記者らの集まった中で原因究明のための公開実験が行われた。 前穂高岳東壁の事故で死亡した犠牲者の実兄である石岡繁雄は、個人的に行った実験で、ナイロンザイルは岩壁登攀時には鋭角の岩角に掛かると人間の体重程度の重量で簡単に切断することを突き止めており、篠田も、研究室での実験を行いこの結論を肯定していた。しかし篠田は、実験前に岩角に丸みをつけるなどして誤ったデータが出るように細工し、結果、ナイロン製ザイルは麻製ザイルに比べて数倍の強度を持つ、という誤りの結果が得られ、そのように報道がなされた。 日本山岳会は『1956年版 山日記』にも、蒲郡での公開実験のデータを基にしたナイロン製ザイルの強度に関する篠田の記述を掲載し、さらに、岩稜会は登攀者の技量未熟をナイロンザイルによるものとしている、と主張した。 この件は作家の井上靖によって朝日新聞に連載された『氷壁』によって世に広く知られることになった。この間、石岡および岩稜会は、篠田、メーカー、日本山岳会の理事会に対し、誤りを正し、問題の所在を明らかにしてナイロンザイルの限界性を明示すべきであると公開質問状などで訴えたが、納得のいく回答は得られなかった。 その後もナイロン製のザイルが切断する登山事故は相次ぎ、1973年(昭和48年)6月、岩稜会の長年にわたる主張が認められ、「消費生活用製品安全法」が制定されて登山用ロープ(ザイル)は同法の対象となった。同法に基づき、1975年(昭和50年)6月には登山用ロープの安全基準が官報で公布され、日本において世界で初めてのザイルの安全基準が制定された。これによって、問題とされた8ミリナイロンザイルは二重にして使用しても登山用としては認められないものとなった。 安全基準の実施後、日本山岳会は『1977年版 山日記』に『1956年版 山日記』で「登山用ロープについて編集上不行届があった。そのため迷惑をうけた方々に対し、深く遺憾の意を表する」 として、21年ぶりに実質的に訂正となる「お詫び」を掲載した。 その後の1989年(平成元年)、日本山岳会の当時の理事会は篠田を名誉会員推薦を決定、石岡は石原國利(ナイロンザイル事故時の岩稜会メンバー)とともに篠田の名誉会員撤回要望書を提出している。翌年2月、理事会は篠田の名誉会員の取り消しは不可能と決定した。この間、日本山岳会東海支部は支部長名で篠田の名誉会員推薦について理事会に対して再審議を申し立てているが、決定は覆らなかった。
※この「ナイロンザイル事件」の解説は、「日本山岳会」の解説の一部です。
「ナイロンザイル事件」を含む「日本山岳会」の記事については、「日本山岳会」の概要を参照ください。
- ナイロンザイル事件のページへのリンク