ソロ以降
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1986年に初めてのソロシングル「1985」、初のソロアルバム『K.ODA』を発表。オフコース時代からソロ活動を始めてはいたが、1989年のオフコース解散以後にソロ活動を本格化。 1991年、フジテレビ月9ドラマ『東京ラブストーリー』の主題歌として制作した楽曲「ラブ・ストーリーは突然に」が、オリコンシングルチャートで第1位を獲得し、258.8万枚のミリオンセラーを突破。 その後は、ヒットメーカーとしての地位を確立し、楽曲はドラマ・CMなどに積極的に採用され、「伝えたいことがあるんだ」、「キラキラ」、「まっ白」などのヒット曲を生み出している。また、オフコース時代を含む過去の楽曲を集め、新アレンジで再録音したセルフカヴァー・アルバム『LOOKING BACK』シリーズや『自己ベスト』は、幅広い年代に支持される大ヒットとなった。 1998年7月22日夜、愛車セルシオを自身で運転して事務所・関係者らとの恒例行事「DEATH MATCH」(ゴルフコンペ)開催のゴルフ場へ向かうため、栃木県都賀町の東北自動車道下り線を走行中、自損事故を起こし全治4週間の重傷を負う。現場付近は雨が降っており、80キロの速度規制のところを、約20キロオーバーの100キロ前後で走行。スリップしてコントロールを失い、ガードロープに接触した。その衝撃で後部座席に飛ばされ、後部座席で横たわった形で救出される。同乗者は無し。幸いにも、後続車による追突や横転、反対車線への飛び出しなどがなかったため、一命を取りとめる。約2週間の入院後、奇跡的な回復を見せ、同年9月12日、福岡県にある「海の中道」で行われたスターダスト・レビューとのジョイントコンサートで、完治していない体だったが歌手活動に復帰した。 2005年にはオリジナルアルバム『そうかな』、2007年にはシングル「こころ」で、それぞれオリコンチャート週間1位を獲得。とかく過去の楽曲が注目・起用されがちな日本の同世代アーティストの中で、新曲で音楽シーンに存在感を示すことができる貴重な存在となっている。 CMとのタイアップや、他のアーティストへの楽曲提供や、コラボレーションも行うようになった。また、初めて持ったテレビのレギュラー番組は大変な反響を呼んだ。 「#テレビメディアへの見方」も参照 また、音楽以外の分野では映画やドキュメンタリーの制作なども行った。 明治村が好きで、何度も足を運んでいる(特にフランク・ロイド・ライトが設計した帝国ホテル中央玄関のミニチュアがお気に入り)。それが縁となり、明治村を経営する名古屋鉄道の企業CMで小田の曲が使われている。 2007年、東北大学が創立100周年記念事業の一環として開催した「東北大学100周年記念式典」において、「東北大学100周年記念文化貢献賞」を芸術・文化部門において受賞する。さらに、聖光学院が開催した「聖光学院中学校・高等学校創立50周年祭」において、招待公演を横浜国際平和会議場(パシフィコ横浜)で行った。 2008年11月、地元に近い京急本線金沢文庫駅の接近メロディに「my home town」が採用された。 2009年3月「ツアー2008 今日もどこかで」で文化庁第59回芸術選奨文部科学大臣賞受賞。同年7月、知人の招きを受け、岩手県大船渡市民文化会館・リアスホールの落成記念公演を行った。 2010年10月20日発売の松尾一彦のミニ・アルバム『せつなくて』にピアノ&ピアノ・アレンジで参加。オフコース解散後、初の元メンバーとのコラボレーションとなる。 2011年から2012年にかけて、ソロ歌手として史上最年長となる自身初の5大ドーム公演を含む31会場全59公演の全国ツアー「どーもどーも その日が来るまで」を開催。約74万人を動員し、自己記録を超え、国内ソロアーティスト歴代最多動員数記録を更新。 2016年4月20日発売のベストアルバム『あの日 あの時』はオリコンで週間1位となり、「アルバム首位獲得最年長アーティスト(68歳7ヶ月)」として、矢沢永吉の記録(63歳8ヶ月)を更新。 2017年11月23日、NHK-FM「今日は一日“小田和正”三昧」でメッセージの形でだが鈴木康博と35年ぶりに共演した。
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ソロ以降
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「ジャコ・パストリアス」の記事における「ソロ以降」の解説
1981年、ワーナー・ブラザース・レコードとソロ契約し、セカンド・ソロ・アルバム『ワード・オブ・マウス』をリリース 。翌1982年にはピーター・アースキンと共にウェザー・リポートから脱退し、ジャコは自身のビッグ・バンドに活躍の主軸を移した1982年4月には「ジャコ・パストリアス・バンド」として来日公演が予定されチケットも一般発売されたが、来日直前で病気などを理由に急遽ツアーは中止となった。 そして、同1982年8月下旬〜9月上旬にかけて、オーレックス・ジャズ・フェスティバルに参加する形で「ワード・オブ・マウス・ビッグ・バンド」としての来日公演を行い、各地で大成功をおさめた。この来日公演の模様は、後日NHK放送枠でオンエアされ、コンサート音源はライブ・アルバム『Twins I & II』などにも収められている。日本側からは東京ユニオンのメンバー数人がホーン・セクションとしてビッグ・バンドに参加していた 。翌1983年5月21日と22日には、再び「ジャコ・パストリアス・バンド」として東京新宿厚生年金会館大ホールでの来日コンサートが行われ、小編成ながらジャコの健在ぶりをアピールした。ほぼ同じ編成でモントリオールでのジャズ・フェスティバルへも出演していて、その模様は『ライブ・イン・モントリオール』としてビデオ・テープ版とレーザー・ディスク版で発売され、後にDVD版でも再発売されライヴ映像として残されている。 その後から晩年にかけてのジャコは、彼の健康状態や、奇行や荒れた生活から来る悪評によりニューヨークのジャズ・クラブ等の多くから出入り禁止を受けるなど、業界から「干された」状況となって行く。しかし当時のニューヨーク以外ではこの事実は知られず、ギター誌の表紙にもなり、ジャコ自身も多くのレコード会社やプロデューサーへ電話を掛けるなどしカムバックを画策していた。小規模なギグ中心の音楽活動自体は続けており、マイク・スターンやハイラム・ブロック、ケンウッド・デナード等とのセッションを行っていた。
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