ソロ以降とは? わかりやすく解説

ソロ以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 01:12 UTC 版)

小田和正」の記事における「ソロ以降」の解説

1986年初めてのソロシングル1985」、初のソロアルバムK.ODA』を発表オフコース時代からソロ活動始めてはいたが、1989年オフコース解散以後ソロ活動本格化1991年フジテレビ月9ドラマ東京ラブストーリー』の主題歌として制作した楽曲ラブ・ストーリーは突然に」が、オリコンシングルチャートで第1位獲得し、258.8万枚ミリオンセラー突破その後は、ヒットメーカーとしての地位確立し楽曲ドラマCMなど積極的に採用され、「伝えたいことがあるんだ」、「キラキラ」、「まっ白」などのヒット曲生み出している。また、オフコース時代を含む過去の楽曲集め、新アレンジ再録音したセルフカヴァー・アルバム『LOOKING BACKシリーズや『自己ベスト』は、幅広い年代支持される大ヒットとなった1998年7月22日夜、愛車セルシオ自身運転して事務所・関係者らとの恒例行事DEATH MATCH」(ゴルフコンペ)開催ゴルフ場へ向かうため、栃木県都賀町東北自動車道下り線走行中、自損事故起こし全治4週間重傷を負う。現場付近降っており、80キロ速度規制ところを、約20キロオーバーの100キロ前後走行スリップしてコントロール失い、ガードロープに接触した。その衝撃後部座席飛ばされ後部座席横たわった形で救出される同乗者は無し幸いにも後続車による追突横転反対車線への飛び出しなどがなかったため、一命取りとめる。約2週間入院後、奇跡的な回復見せ同年9月12日福岡県にある「海の中道」で行われたスターダスト・レビューとのジョイントコンサートで、完治していない体だったが歌手活動復帰した2005年にはオリジナルアルバムそうかな』、2007年にはシングル「こころ」で、それぞれオリコンチャート週間1位を獲得。とかく過去の楽曲注目起用されがちな日本同世代アーティストの中で、新曲音楽シーン存在感を示すことができる貴重な存在となっている。 CMとのタイアップや、他のアーティストへの楽曲提供や、コラボレーションも行うようになったまた、初め持ったテレビレギュラー番組大変な反響呼んだ。 「#テレビメディアへの見方」も参照 また、音楽以外分野では映画ドキュメンタリーの制作なども行った明治村が好きで、何度も足を運んでいる(特にフランク・ロイド・ライト設計した帝国ホテル中央玄関ミニチュアお気に入り)。それが縁となり、明治村経営する名古屋鉄道企業CM小田の曲が使われている。 2007年東北大学創立100周年記念事業一環として開催した東北大学100周年記念式典」において、「東北大学100周年記念文化貢献賞」を芸術・文化部門において受賞する。さらに、聖光学院開催した聖光学院中学校・高等学校創立50周年祭」において、招待公演横浜国際平和会議場パシフィコ横浜)で行った2008年11月地元に近い京急本線金沢文庫駅接近メロディに「my home town」が採用された。 2009年3月ツアー2008 今日もどこかで」で文化庁第59回芸術選奨文部科学大臣賞受賞同年7月知人招きを受け、岩手県大船渡市民文化会館・リアスホールの落成記念公演行った2010年10月20日発売松尾一彦ミニ・アルバムせつなくて』にピアノ&ピアノ・アレンジで参加オフコース解散後、初の元メンバーとのコラボレーションとなる。 2011年から2012年にかけて、ソロ歌手として史上最年長となる自身初の5大ドーム公演を含む31会場59公演全国ツアー「どーもどーも その日が来るまで」を開催。約74万人動員し自己記録超え国内ソロアーティスト歴代最多動員数記録更新2016年4月20日発売ベストアルバムあの日 あの時』はオリコン週間1位となり、「アルバム首位獲得最年長アーティスト68歳7ヶ月)」として、矢沢永吉記録63歳8ヶ月)を更新2017年11月23日NHK-FM今日一日小田和正三昧」でメッセージの形でだが鈴木康博35年ぶりに共演した

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ソロ以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 03:42 UTC 版)

ジャコ・パストリアス」の記事における「ソロ以降」の解説

1981年ワーナー・ブラザース・レコードソロ契約し、セカンド・ソロ・アルバム『ワード・オブ・マウス』をリリース 。翌1982年にはピーター・アースキンと共にウェザー・リポートから脱退しジャコ自身ビッグ・バンド活躍主軸移した1982年4月には「ジャコ・パストリアス・バンド」として来日公演予定されチケット一般発売されたが、来日直前病気などを理由急遽ツアー中止となった。 そして、同1982年8月下旬9月上旬にかけて、オーレックス・ジャズ・フェスティバルに参加する形で「ワード・オブ・マウス・ビッグ・バンドとしての来日公演行い各地大成功おさめた。この来日公演模様は、後日NHK放送オンエアされ、コンサート音源ライブ・アルバムTwins I & II』などにも収められている。日本側から東京ユニオンメンバー数人ホーン・セクションとしてビッグ・バンド参加していた 。翌1983年5月21日22日には、再び「ジャコ・パストリアス・バンド」として東京新宿厚生年金会館ホールでの来日コンサートが行われ、小編成ながらジャコ健在ぶりをアピールした。ほぼ同じ編成モントリオールでのジャズ・フェスティバルへも出演していて、その模様は『ライブ・イン・モントリオール』としてビデオ・テープ版とレーザー・ディスク版で発売され、後にDVD版でも再発売されライヴ映像として残されている。 その後から晩年にかけてのジャコは、彼の健康状態や、奇行荒れた生活から来る悪評によりニューヨークジャズ・クラブ等の多くから出入り禁止を受けるなど、業界から「干された」状況となって行く。しかし当時ニューヨーク以外ではこの事実知られず、ギター誌の表紙にもなり、ジャコ自身多くレコード会社プロデューサー電話掛けるなどしカムバック画策していた。小規模なギグ中心音楽活動自体続けており、マイク・スターンハイラム・ブロックケンウッド・デナード等とのセッション行っていた。

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