スケバン映画
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本作以降、男の番長よりも、女の番長を主人公とする、いわゆる"女番長(スケバン)映画"が1970年代前半に一大ブームとなった。この"女性版不良番長/女番長映画"を最初に作ったのは東映ではなく日活で、1969年長谷川照子主演『女番長 仁義破り』を製作した。タイトルに"女番長"と付いた映画も『女番長 仁義破り』が初。1970年、大映が南美川洋子主演で『高校生番長』を、日活も長谷部安春監督・和田アキ子・梶芽衣子主演で『女番長 野良猫ロック』を同年、同じ5月2日に公開し、どちらもシリーズ化して突如"女番長ブーム"が起きた。『女番長 野良猫ロック』のヒットは、併映がハレンチ学園』だったからという見方もある。この『野良猫ロック』シリーズは、出演者がバイクやバギーに乗る設定が『不良番長』からの影響が見られる。大映、日活だけに儲けさせておくわけにはいかんと、東映は同年6月13日、京都撮影所で大原麗子、夏純子、市地洋子主演で『三匹の牝蜂』を製作公開。東映の"女番長映画"も岡田茂企画のこれが最初。また東京撮影所で、同時期『不良番長』にも出演した大信田礼子を主演に『不良番長』のスピンオフ企画として『ずべ公番長 夢は夜ひらく』(9月22日公開)を第一作に『ずべ公番長』をシリーズ化、東西の撮影所で別々の女番長映画を製作した。「ずべ公番長シリーズ」は、毎回ズベ公達が刺激的な服装で登場する点で、コスプレものの元祖という評価もある。東映の女番長映画は、岡田が「石井輝男のエログロ映画が終わり、ヤクザ映画以外にもう1本ラインがないと興行が弱い、若者のラインを何とか確立したい」と号令してシリーズ化させた。岡田は"牝蜂"という言葉が好きで、『三匹の牝蜂』の続編も岡田が命名した『牝蜂の逆襲』というタイトルで製作を進めていたが、監督の鈴木則文が当時の取材中に耳にした"すけばん"という言葉の鮮度は捨てがたいと"女番長"と書いて"すけばん"と読ませることを発案し『女番長(すけばん)ブルース 牝蜂の逆襲』(1971年10月27日公開)というタイトルに変更した。映像作品のタイトルに"すけばん"という言葉が使われたのはこの映画が最初。"すけばん/スケバン"という言葉はそれまでまだ一般的には知られていなかった。この池玲子を主演とする『女番長(すけばん)ブルース 牝蜂の逆襲』が『女番長シリーズ』第一作とされているが、すけばん"を片仮名表記の"スケバン"に変更したのは、1972年8月公開のシリーズ三作目の『女番長(スケバン)ゲリラ』で、片仮名表記の"スケバン"とタイトルに付けられたのも本作が最初。東映以外の女番長映画は案外露出度は低かったが、東映の本シリーズは主演の池玲子が初のトップレス番長を演じ巨乳を披露した。本シリーズは完全なバイカー映画で、『不良番長』の女性版という趣だった。1973年1月13日公開されたシリーズ四作目『女番長 スケバン』が、『仁義なき戦い』1作目との併映。間もなく大映が消滅し日活もロマンポルノに移行するため、東映のみで「スケバン映画」が、池玲子や杉本美樹、山内えみこらの主演で製作が続き、内藤誠監督の1977年『地獄の天使 紅い爆音』で1970年代の「スケバン映画」は終了したとされる。その後「スケバン映画」は、1975年に連載が始まった和田慎二の漫画『スケバン刑事』を実写化したスケバン刑事#実写化作品が1980年代後半に東映でテレビドラマ化、映画化され大ブームを起こした。
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スケバン映画
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日本の於ける"不良グループ"ものの先駆は、やはり岡田が梅宮辰夫を売り出すため、マーロン・ブランドの主演映画『乱暴者』などをヒントに作らせた1968年から始まる『不良番長』シリーズといわれるが、『不良番長』シリーズのヒットに目を付け、その女性版を作ったのは東映が最初ではなく、日活が1969年に作った『女番長 仁義破り』(長谷川照子主演・江崎実生監督)。 これを皮切りに日活は1970年『野良猫ロック』をシリーズ化して突如女番長ブームが起きた。この『野良猫ロック』シリーズは第1作のみホリプロが製作した関係で主演が和田アキ子で、2作目から5作目が梶芽衣子だった。梶はこの後、東映に移籍するが『野良猫ロック』シリーズには東映で当てた『女囚さそりシリーズ』の萌芽が見られる。 東映も『野良猫ロック』シリーズと同時期に東撮で大信田礼子主演『ずべ公番長』シリーズを、京撮で大原麗子、夏純子、市地洋子主演で『三匹の牝蜂』(1970年6月公開)を製作。 東映の女番長映画は、岡田が「石井輝男のエログロ映画が終わり、ヤクザ映画以外にもう1本ラインがないと興行が弱い、若者のラインを何とか確立したい」と号令をかけシリーズ化させた。 東映の番長映画は、男版も女版も岡田の企画。『三匹の牝蜂』は、中島貞夫が脚本を担当しており、中島の1966年の映画『893愚連隊』との類似性も指摘され、住所不定、無職のチンピラ娘三人が、万博で賑わう大阪を舞台にウロチョロ悪事をやらかし、やがて暴力団と真正面からぶつかる話で、「スケバン」「女番長」という設定でこそないが"スケバンもの"の一つといえる。 ここでのピチピチした若い女たちの活躍ぶりが1970年9月公開の『ずべ公番長』シリーズに引き継がれる。同シリーズは、大信田ら、ずべ公たちが毎回ビキニ、ミニスカ、ホットパンツなど、流行のハレンチファッションに身を包み"元祖コスプレ"とも評される。同シリーズは、二作目以降、どんどんエロ要素は希薄となり、ずべ公たちによる男顔負けの荒っぽい女の活劇映画に変化した。 その後女番長シリーズは池玲子や杉本美樹、山内えみこらが主演して多数製作されるが、1970年10月27日公開の『女番長ブルース(すけばん) 牝蜂の逆襲』で初めて"女番長"をすけばん(スケバン)と読ませた。 "すけばん(スケバン)"という言葉が映像作品で用いられたのはこれが最初。封切り時の映画ポスターに「女番長」の下に"すけばん"とルビが振られている。 これ以前の他社の『女番長〇〇』という映画は、"女番長"と書いて"おんなばんちょう"と読んでいた。 元は岡田が命名した『牝蜂の逆襲』というタイトルで製作を進めていたが、当時の取材中に耳にした"スケバン"という言葉の鮮度は捨てがたいと監督の鈴木則文が"女番長"と書いて"すけばん(スケバン)"と読ませることを発案し『女番長(すけばん)ブルース 牝蜂の逆襲』というタイトルに変更したと話しているが、映画界を引退していた『女番長ブルース 牝蜂の逆襲』の助監督で脚本も担当した皆川隆之がインタビューで、「東京で『不良番長』をやっていたので『女番長』にして、そのまま読んでも語呂が悪いと、いろいろ考えて『スケコマシ』の『スケ』を使って『スケバン』にした」「ぼくの造語なんです」などと話し、『スケバン』という言葉を作ったのは自分と述べている。 東映のスケバン映画は他社のスケバン映画と比べポルノ性が高かった。 毛並みのいい映画会社・東宝も東映の女番長シリーズを研究し1972年『混血児リカ』(製作:近代映画協会、監督:中平康、脚本:新藤兼人、原作:凡天太郎)という珍品スケバン映画を撮った。女番長シリーズ7作目『女番長 玉突き遊び』(1974年公開)で、同作に主演する新人ポルノスター発掘に、東映と日本テレビの共催で、ポルノ女優テレビオーディションが開催され、三回に渡る審査を経て1973年7月7日、最終審査が日本テレビの『土曜イレブン』生放送で全国放送された。内容が内容だけに応募者も少なかったが、井原高忠、阿久悠、大竹省二、天尾完次、鈴木則文、多々良圭、荒木一郎ら審査員と司会者が、ブラジャーを取るのを強要したり、セクハラ質問を浴びせたり、現在ではまず有り得ない放送だったといわれる。合格者は佐分利聖子と叶優子だった。 篠原とおる原作・杉本美樹主演の1974年『0課の女 赤い手錠』は (野田幸男監督)長い年月を掛けて再評価された。 1971年に大映が消滅し日活もロマンポルノに移行するため、東映のみで"スケバン映画"の製作は続いたが、製作ペースが鈍ったのは、やはり岡田社長がブルース・リー映画を観て、カンフー映画ブームの到来を予測し、千葉真一や山下タダシ、志穂美悦子らを使って和製カラテ映画の製作を始めたことだった。 これによりそれまでスケバン映画が独占してきた実録映画のB面番組枠を和製カラテ映画が奪ってしまった。 カラテ映画がその後も『地上最強のカラテ』などのカラテドキュメンタリー路線まで、思いのほか長く続き"スケバン映画"は遂に浮上できなかった。出番を失った山内えみこらスケバン女優の多くはテレビ部門に送り込まれた。1977年『地獄の天使 紅い爆音』で1970年代の"スケバン映画"は終了したとされる。同作は売り出し中の歌手・内藤やす子の宣伝媒体に利用されたが、劇場公開と同時に内藤が大麻所持で逮捕され映画生命を絶たれた。その後"スケバン映画"は、1975年に連載が始まった和田慎二の漫画『スケバン刑事』を実写化したスケバン刑事#実写化作品が1980年代後半に東映でテレビドラマ化、映画化され大ブームを起こした。
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