エアンナ地区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 16:23 UTC 版)
「ウルク (メソポタミア)」の記事における「エアンナ地区」の解説
エアンナ地区ではウルク期の第6層から第4層にかけて文字史料と記念碑的公共建築が登場する。ウルク前期から同じ場所に建てられ続けた何層にもわたる建築群が基壇となり、ウルク後期には大きな神殿複合体が形成されていた。特に第4a層は良く調査されており、この層から最古の粘土板文書が発見されている。一方で古い層の建造物は解体されて地ならしが行われているために上部構造がわからなくなっている。 エアンナ(英語版)における最初の建造物であるStone-Cone Temple(モザイク神殿)はウバイド期に建設された第6層の神殿の上に建てられ、精工なバットレスの構造を持つ石灰岩の壁で囲われている。 Stone-Cone Templeという名称は、色付きの円錐形の石が泥レンガ(英語版)表面に押し込まれていたことから来ている。この神殿はメソポタミア最古の水信仰の痕跡かもしれない。後のウルク第4b層の時代、この神殿は儀式的に取り壊され、神殿にあった物品はリームヘンレンガ建造物(Riemchen Building)に埋納された。 続くウルク第5層では、Stone-Cone Templeの約100メートル東に「石灰岩の神殿(Limestone Temple)」が建てられた。この「石灰岩の神殿」が事実神殿であったかどうか確証はないが、平面プランなどからは神殿であったとする蓋然性が高いであろうと予測される。モザイク神殿と同じようにこの神殿もウバイド期の文化の継続を示し、既設のウバイド期の建物が積み重なってできた、地表から2メートルの高さの基壇の上に築かれた。しかし、「石灰岩の神殿」はその規模と石材の使用という点において前例のないものであり、伝統的なウバイド建築とは明確に一線を画するものである。石灰岩の石材はウルクから東におよそ60キロメートルのウマイヤドの露岩から採石されたものであった。神殿全体がこの石灰岩で建設されていたのか、それとも土台だけが石灰岩で作られていたのかは不明である。「石灰岩の神殿」は恐らく当初はイナンナ神殿であったと思われるが、確証を得ることはできない。モザイク神殿のように「石灰岩の神殿」は円錐形の石によるモザイクで覆われていた。これらの神殿のいずれもが長方形で、その角を基本方位(東西南北)に合わせて建設された。中央のホールの両側に沿って2つの小ホールが配置され、ファサード(正面部)には支えのバットレス(控え壁)が備え付けられた。これは、その後のメソポタミア地方における神殿建築様式の原型となる。 この2つの記念碑的神殿遺構の間にはウルク第4層の時代に建設された建造物群(#建築を参照)がある。これらの建造物は慣習的にA神殿、E神殿などと呼ばれているが、それぞれの建物の実際の用途が何であったのかについて、明確に理解されているわけではない。ただし「神殿」と呼ばれている建物はアヌ地区にある「神殿」と共通する建築的特徴を有している。これらが建てられた時代、広域の交易圏が成立し、ウルクの市域は250ヘクタールまで拡大した。 リームヘンレンガ建物は、ドイツ人によって「リームヘン(Riemchen)」と名付けられた、16cm四方のレンガ状の建材が用いられているためにこの名で呼ばれる。この建物は、かつて存在した円錐石材神殿が破壊された後に、その神殿を偲んで建設された、記念碑とでもいうべき建物である。その中央部では、儀式の炎が絶えることなく灯されていた。このため、ウルク第4期は、信仰と文化に関する態度を再決定した時代であるとも言える。この建物のファサードは幾何学的・寓意的な装飾で覆われていたかもしれない。第4b層の建物はその後儀式的に破壊され、第4a層の時期にエアンナ地区全体が大規模に再建された。 エアンナの第4a層において、「石灰岩の神殿」が取り壊され、その基礎の上に「赤色神殿(Red Temple)」が建設された。ウルク第4b層の建物の残骸で基壇が成型され、その上にC、D、M神殿、「列柱広間(Great Hall)」、「Pillar Hall」が建設された。E宮殿は当初宮殿であろうと考えられたが、後に公共建築であることが確認された。また、第4層の時代には円錐モザイクで覆われた2段のベンチが囲む「大中庭(the Great Court)」が建てられた。小さな水路がこの大中庭に流れ込んでおり、これは庭に水を供給していたのかもしれない。ウルクの絶頂期、その規模が600ヘクタールまで広がった頃にこれらの壮大な建物が建てられた。エアンナの第4a層の建物はいくつかウルク第3層の時期に破壊された。その理由は不明である。 エアンナの第3層の建物はそれまでのものとは大きく異なっていた。記念碑的な神殿の複合体は入浴施設と大宮殿、そして迷路のような版築(Rammed-Earth)の建物に置き換えられた。ウルク第3層は前2900年頃のシュメール初期王朝時代に対応し、ウルクと競合する都市国家群の成長によってウルクの権威が衰え、大きな社会的変革が起きていた時期であった。要塞のような建築は、この時代の混乱を反映している。イナンナ神殿はこの時代の間に新たな形態と「ウルクのイナンナの家(シュメール語:e2-dinanna unuki-ga)」という新たな名前で機能し続けていたが、その建物の位置は現在では不明である。
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