神話の王から古典古代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 16:23 UTC 版)
「ウルク (メソポタミア)」の記事における「神話の王から古典古代まで」の解説
前2900年頃から、シュメール初期王朝時代と呼ばれる時代に入る。南メソポタミアを中心に数々の都市国家が勢力を拡大し、次第にそれらの中から都市を超えた領域を支配する有力国家が誕生していった。この時代は前24世紀頃、あるいはその前後(編年の問題については古代オリエントの編年を参照)のアッカドの王サルゴン(シャル・キン)による統一によって終わる。 ウルクはこの時代の間、有力な勢力の1つであった。ウルクでは既にウルク期に「世俗」の王権の下で都市国家と呼べる政体を形成していた。ジェムデト・ナスル期(前3100年頃-前2900年頃)を経て初期王朝時代に入ると、ウルク型の都市国家がユーフラテス川・チグリス川の下流域に林立し、シュメール社会の根幹を成すようになった。日本の学者前田徹は初期王朝時代中盤に地域的な統合を果たした有力諸都市国家をドイツ史の用語である領邦国家(Territorialstaat)を参考に領邦都市国家と名付けており、このような都市国家としてウルクの他、ニップル、アダブ(英語版)、シュルッパク、ウンマ、ラガシュ、ウルを分類している。既に文字が登場していた時代であるが、政治史を語る情報が十分に得られるのは前2500年頃からの初期王朝時代の最終盤に入ってからであり、この間のウルクの歴史を具体的に復元することはできない。 初期王朝時代初期のウルクの王たち(ウルク第1王朝)について伝えるのは『シュメール王朝表』であり、それらの中には実在の可能性が想定されている王もいる。上述したウルクの創建者エンメルカルの他、牧夫ルガルバンダ、3分の2が神、3分の1が人間とされたビルガメシュ(ギルガメシュ)などがそれにあたる。これら3名の王は英雄叙事詩的な文学作品が今日に残されており、とりわけウルク王ギルガメシュを主人公とした『ギルガメシュ叙事詩』は古代オリエントにおける文学作品の最高傑作と言われる。ギルガメシュはまた、ウルクの城壁の建設者ともされているが、事実であるかどうかは不明である。建設者の問題は別としても、初期王朝時代、ウルクの城壁内の面積は600ヘクタールに達しており、ウルクの市域はこの時代に最も拡大した。 前2500年以降、初期王朝時代最後の争いにおいてもウルクは中心的な役割を果たした。前2400年頃のウルク王エンシャクシュアンナ(ウルク第2王朝)は初めて「国土の王(Lugal kalam ma.KI)」という称号を用いた。これはシュメール全土の支配権を明瞭に象徴する称号と考えられ、この称号はその後、ウンマの王で後にウルクに拠点を遷した王ルガルザゲシ(ウルク第3王朝)に受け継がれた。ルガルザゲシは前24世紀にシュメール全域を統一したが、間もなくアッカドの王サルゴンによって倒され、メソポタミアはアッカド帝国の下で統合されることとなった。 アッカド帝国は前22世紀頃崩壊した。アッカドによる支配の終焉は、一般に蛮族グティ人(グティウム)の侵入という文脈で語られるが、これは後世作り上げられた「物語」としての要素が大きく、この時代の実像は詳らかではない。アッカド支配が揺らぐ中、ウルクはシュメールの都市の中でいち早く独立を達成した。ウルクの独立はアッカドの王シャルカリシャッリ(在位:前23世紀末、または前22世紀前半)の時代であり、ウルク王ウルニギンに始まる王たちはウルク第4王朝と分類されている。この後、前22世紀末にウルク第5王朝の王とされるウトゥ・ヘガルがウルク王となった。ウルク第4王朝の王はウルニギンとウルギギルという最初の2名以外の実在性が不確かであり、ウルク第4王朝の王たちとウトゥヘガルの関係は不明である。ウトゥヘガルは後世の伝承において、グティ人の王ティリガンを打ち倒しシュメールを再統一したとされるが、アッカドの崩壊とグティ人の関係の史実性が不明瞭であるのと同様にウルク第5王朝とグティ人の関係についての伝承もまた後世の潤色を多く含んでいると考えられる。 やがて、ウトゥヘガルがウルに派遣した将軍ウルナンムが、その地で自立して新たな王朝(ウル第三王朝)を打ち立て、シュメール全域を支配する勢力に成長した。この王朝の下で、ウルクは経済及び文化の中心地として復興を果たした。大規模な再建活動によって、イナンナ神殿及びエアンナ地区は修復された。ウルク期のイナンナ神殿遺構の北東にあったジッグラトと「世界の家(House of the Universe、E2(英語版).SAR.A(英語版)」はこの神殿の一部であった。このジッグラトは建設者ウル・ナンムに因み、ウル・ナンムのジッグラトとしても言及される。ウル第3王朝の崩壊(前2000年頃)の後、ウルクは数百年間にわたる衰退の時代に入る。前2千年紀後半から前1千年紀にかけて、ウルクは再び繁栄の時代に入り建設活動が活発化した。アッシリア(新アッシリア時代)が前850年にこの地方を併合し、ウルクを地方の首都としたこともこれを後押しした。アッシリアに続く新バビロニアの王ナボポラッサルの時代、ウルクの全ての神殿と運河が修復された。この時代のウルクは5つの主要な地区(アダド神殿、王宮果樹園、イシュタル門、ルガル・イッラ(Lugalirra)神殿、シャマシュ門)に分割されていた。前250年ころ、新たな神殿複合体(Head Temple、アッカド語:Bīt Reš)がウルク期のアヌ地域の北西に追加された。Bīt Rešはエサギラ神殿と共に、バビロニアの天文学(英語版)の拠点の一つであった。
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