イエナ・アウエルシュタットの戦い
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イエナ・アウエルシュタットの戦い(ドイツ語:Schlacht bei Jena und Auerstedt)は、ナポレオン戦争中の1806年10月14日、ドイツのテューリンゲン、イエナおよびアウエルシュタットで行われた戦闘である。ナポレオン1世率いるフランス帝国軍と、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世率いるプロイセン王国軍が交戦した。
- 1 イエナ・アウエルシュタットの戦いとは
- 2 イエナ・アウエルシュタットの戦いの概要
- 3 会戦に至る機動
- 4 イエナの戦い
- 5 アウエルシュタットの戦い
- 6 結果と影響
- 7 戦後
- 8 参考文献
イエナの戦い
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「イエナ・アウエルシュタットの戦い」の記事における「イエナの戦い」の解説
10月14日、この時点でフランス軍主力の集結は完全に終わっておらず、ナポレオンの手元にある戦力は45,000名、砲100門前後だった。ナポレオンは砲兵をラントグラフェルベルク山に上げ、火力支援が加えられるようにした。これに対し、プロイセン軍はホーエンローエ軍33,000名、砲120門。ザールフェルトでの損害に加え、ドルンブルクに側面防御のための5,000名を派遣していたので、さらに劣勢となっていた。ホーエンローエは前日のうちにリュッヒェルに援軍を要請していたが、彼らが到着する前にフランス軍は行動を開始した。 午前6時、フランス軍は攻撃を開始した。この日は濃霧が漂っていたが、それはフランス軍の行動を秘匿することとなり、一種の奇襲効果を生み出した。ランヌの第5軍団20,000名が先陣を切って中央へ進み、続いて右翼からスールトの第4軍団先鋒9,000名、左翼からはオージュローの第7軍団16,000名が進んだ。奇襲効果もあり、ほどなく第5軍団はクロズヴィッツとコスペダのプロイセン軍を撃退、戦線の中央を押し込んだ。これによってプロイセン軍の戦線は大きく歪み、崩壊の危機にさらされた。 午前9時、ホーエンローエは予備の部隊を投入してフランス軍の攻撃を防ぎ、その間に戦列の再編に取りかかった。フィールツェンハイリゲンを中心として、左翼はヘルムスフォッド、右翼はイゼルシュタットに至る防衛線を形成し、これに拠ってワイマール方面から向かってくるリュッヒェルの援軍を待つつもりであった。ナポレオンはここを好機と見て、全軍に積極的攻勢を命じた。 この直後、ネイの第6軍団の先鋒4,000名が戦場に到着、ナポレオンからの命令を待たず、独断で第5軍団の左翼をすり抜けて突撃を開始した。当初は一定の成功を収めたものの、後に戦列を整えたプロイセン軍の反撃によって跳ね返された。突出して敵中に嵌まり込んだ第6軍団は、プロイセン騎兵の猛攻にさらされた。ナポレオンはベルトランに親衛隊の騎兵2個連隊を与えて救出に派遣するとともに、ランヌにネイの支援を命じた。 午前10時、ドルンブルクに派遣されていたプロイセン軍の分遣隊5,000名が戦場に到着、右翼のスールトの第4軍団へ攻撃を仕掛けた。スールトは歩兵と騎兵の協同によってこれを完全に撃退し、側面の安全を確保することに成功した。続けて第4軍団はヘルムスフォッドのプロイセン軍左翼を押し込み、グロス・ロムスタッドまで後退させた。 午前11時、第5軍団がフィールツェンハイリゲンを制圧、再びプロイセン軍の戦線中央に危機が訪れた。ここにおいてホーエンローエは全軍を後退させ、ヴァイマルへ至る街道方面へと全部隊を集中させた。いまやプロイセン軍の取れる選択肢は、リュッヒェルの支援を得て、戦場から撤退することだけであった。しかしこの街道上への集結により、プロイセン軍は遮蔽物のない状態で、村落の生垣を利用するフランス軍と銃撃戦を繰り広げることとなった。 午後1時、この時点でフランス軍は後続の集結も終わり、ほぼ全力が整っていた。一方、プロイセン軍は2時間にわたる銃撃戦で痛めつけられ、崩壊の一歩手前の状態であった。すでに一部の部隊が横列を組んでフランス軍の攻撃に耐えているのみだった。勝利を確信したナポレオンは総攻撃を命令した。 午後2時、リュッヒェルの援軍13,000名が戦場に到着した。ところが、リュッヒェルは友軍の撤退を援護するのではなく、フランス軍へ向けて突撃を開始した。第5軍団・第6軍団・第7軍団がこれを迎え撃ち、優勢な兵力によって徹底的に撃破した。ここにおいて最後の予備兵力も消滅し、プロイセン軍は完全に崩壊した。総崩れに陥ったプロイセン軍に対し、フランス軍は追撃に移行、これにミュラの騎兵予備軍団も加わって敗兵を掃討した。プロイセン軍のわずかな残党は散り散りになって北方へと逃亡していった。 このイエナの戦いで、プロイセン軍は兵員25,000名、砲112門を失った。これに対し、フランス軍の損害は5,000名ほどに過ぎず、完全勝利と言えるものだった。もともと彼我の兵力差には大きな開きがあり、当然ともいえる勝利だったが、プロイセン軍主力を撃破したと考えていたナポレオンは勝利を大いに祝った。しかしこの同じ日、より重要な勝利が北方のアウエルシュタットで達成されていた。
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