『カルビンとホッブス』以降
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「ビル・ワターソン」の記事における「『カルビンとホッブス』以降」の解説
『カルビンとホッブス』が完結を迎えた後、ワターソンは楽しみのために水彩の風景画を描き始めた。マスコミからは距離を置き、『カルビンとホッブス』の旧作を収録したアンソロジーを出版する以外は、同作を再開したり、そのキャラクターを描いたり、新しい商業作品に取り掛かる意思を一切見せなかった。ファンにサインをすることも、キャラクターの商品化を許諾することもなく、公言した通りの信条を貫いた。ワターソンはホームタウンのチャグリン・フォールズにある家族経営の書店、ファイアサイド・ブックショップにこっそり自著のサイン本を置くことで知られていたが、それらがオンラインで高額で売買されていることに気づくとこの習慣も止めた。 ワターソンはほとんどインタビューを受けたり公の場に出てくることがない。長文のインタビューは数えるほどで、1989年2月の『コミックス・ジャーナル(英語版)』誌第127号に載ったもの や、1987年に『ホンク・マガジン』誌が行ったものや、2015年の個展のカタログに収録されたものがある。 現代の漫画家とコミック・ストリップに対しては、ある部分には敬意を払い、またある部分には批判を向けてきた。ワターソンが称賛した作品には『ドゥーンズベリー』、『フォックストロット(英語版)』、『善かれ悪しかれ(英語版)』、『ザ・ファーサイド(英語版)』、『ブルーム・カウンティ(英語版)』、『キャシー(英語版)』、『カル・デ・サク(英語版)』、『パールズ・ビフォア・スワイン(英語版)』がある。一方で批判を続けてきたのは、『ガーフィールド』のように長年連載が続き、ギャグの繰り返しや新鮮味のないストーリー展開が目立ち、商品化だけが盛んなコミック・ストリップである。[要出典] 1999年12月21日、『ロサンゼルス・タイムズ』に短文を寄稿した。『ピーナッツ』の作者でアイコン的な存在であったチャールズ・シュルツの引退を記念するものだった。 『カルビンとホッブス』の終了から数年にわたって、ホームタウンのチャグリン・フォールズに赴いてワターソンと面会しようとする試みが数多く行われた。オハイオ州クリーブランドの地方紙、『プレイン・ディーラー(英語版)』と『クリーブランド・シーン(英語版)』はそれぞれ1998年と2003年に記者を送り込んだが無駄に終わった。 2004年、ワターソンと妻のメリッサはクリーブランドの郊外にあるクリーブランド・ハイツ(英語版)に新宅を購入し、翌年チャグリン・フォールズから転居した。 2005年、『ワシントン・ポスト』紙のジーン・ウェインガーテン(英語版)はワターソンに『バーナビー(英語版)』の初版本を贈ってインタビューを取り付けようとした。ウェインガーテンはワターソンの両親に本とメッセージを送り、ワターソンが連絡をくれるまでホテルで待つと宣言した。しかしその翌日、ワターソンの編集者リー・セイレムが電話で拒絶の意思を伝えてきた。 2005年10月、ワターソンは読者から寄せられた15の質問に回答した。2007年10月、『ウォールストリート・ジャーナル』にシュルツの伝記『シュルツ・アンド・ピーナッツ』の書評を寄せた。2008年にはリチャード・トンプソン(英語版)のコミック・ストリップ『カル・デ・サク』に序文を書いた。 2010年の初め、『カルビンとホッブス』の終了から15年目に、ワターソンは『プレイン・ディーラー』紙のインタビューを受け、連載打ち切りの決定について以下のように述べた。 いろいろ論じている人もいるけど、そんなに難しい理由じゃない。まる10年続けてきて、わざわざ人前に出て言いたいことがなくなってしまったんだ。パーティーはお開きになる前に抜け出すのがいい。もし人気に甘えてそのまま走り続けていたら、そして5年、10年、20年と同じ内容を繰り返したとしたら、今『カルビンとホッブス』を「哀悼」している人だって、私に死ねって思うんじゃないかな。そして、フレッシュで生きのいい新人を採用せず、古くてつまらない漫画を続ける新聞社を罵倒しただろうね。そうなったら私も賛成したと思うよ。今でも『カルビンとホッブス』に支持者がいる理由は、タイヤが落っこちるまで走り続けることを選ばなかったのが大きいと思う。あのタイミングで止めたのを後悔したことはないよ。 — ビル・ワターソン、 2011年4月、アンドリューズ・マクミール(英語版)・パブリッシングの代表者は「オハイオ州クリーブランドハイツ在住、ウィリアム・ワターソン」と名乗る人物から小包を受け取った。中には『カル・デ・サク』の登場人物ピーティ・アターループを描いた6×8インチの油彩板絵が入っていた。チーム・カル・デ・サクが設立したパーキンソン病基金のためにワターソンが描いたものだった。ワターソンのシンジケートは合併によりユニバーサル・ユークリック(英語版)となっていたが、彼らにとっても1995年に『カルビンとホッブス』が終了して以来初めて見る作品であった。 2013年10月、『メンタル・フロス』誌に活動休止以来2本目のインタビューが掲載された。ワターソンは『カルビンとホッブス』を再開する意思がないことを改めて確認し、後悔はないと述べた。またコミックブック産業に起きた変化とその将来について意見を述べた。 個人的には、ディスプレイでピクセルが光っているより紙とインクの方が好きだ。しかし、それぞれ好みはあるだろうし、コミックの役割が激しく変化していることは間違いない。たとえば、これほどコミックが広く受け入れられ、高く評価される時代は過去になかった。その一方で、マスメディアが崩壊していく中で読者の分断が進んでいる。これからコミックの文化的影響は小さくなっていくだろうし、生み出すお金も減っていくのではないかと思う。私も古い人間だからこういう状況に心穏やかではいられないが、時代は変わるものだ。新しいメディアがどんどん登場して、コミックの形態を、機能を、そして多分、意味さえも変えてしまうのは避けられない。しかし、コミックには生命力と適応力があるから、どうにかして今日的な意義を持ち続けると思うよ。ただ、私が子供のころから親しんできたコミックとはまったく違うものになるというだけだ。 — ビル・ワターソン、 2013年、『カルビンとホッブス』の文化的影響を扱ったドキュメンタリー『ディア・ミスター・ワターソン(英語版)』が公開された。 2014年2月26日、コミック・ストリップ産業に関するドキュメンタリー映画『ストリップト(英語版)』のポスターアートを手掛けた。漫画風のイラストとしては活動休止以来はじめての作品だった。 2014年の6月4日から6日にかけて配信された『パールズ・ビフォア・スワイン』の3作は、作者ステファン・パスティス(英語版)とワターソンのコラボレーションによって制作された。登場人物の子供がパスティスに替わって描いたという体でワターソンのイラストレーションを取り入れたものだった。共作はパスティスがネームを電子メールで送り、ワターソンが絵を入れる形で行われた。パスティスは思いがけない経緯によって実現した共作を「ビッグフットを見たような気分だ」と例えた。ワターソンは『ワシントン・ポスト』に対し、「ステファンとのコラボレーションですごくバカバカしい作品が作れると思った。それを使ってリチャード・トンプソンのためにパーキンソン病研究の基金を募るつもりだった。うまく歯車がかみ合ったんだ」と語った。パスティスはコラボレーション終了後の最初の作品で 『カルビンとホッブス』最終回へオマージュを捧げた。 2014年11月5日、翌年のアングレーム国際漫画祭のために描いたポスターが公開された。ワターソン自身も同年のグランプリを受賞した。 2016年のエイプリル・フールに、バークリー・ブレシド(英語版)(『ブルーム・カウンティ(英語版)』)はFacebookへの投稿でワターソン作品の独占使用権を「管理下に置いた」と告知し、自らのキャラクターであるオパスがカルビンやホッブスと共演するコミックを投稿した。同作にはワターソンの署名が入っていたが、どのように制作にかかわったのかは明らかにされていない。ブレシドは翌年のエイプリル・フールにも『カルビン・カウンティ』と題するコミックを投稿し、ワターソンの署名入りでカルビンとホッブスを登場させた。さらに、『ニューヨーク・タイムズ』のウェブサイトを模して二作品が統合されるというフェイクニュースページを公開した。
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