高嶺秀夫 参考文献

高嶺秀夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/03 23:43 UTC 版)

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関連項目


  1. ^ 小石川区役所編輯 『小石川区会史 上巻』 小石川区役所、1938年3月、45-46頁
  2. ^ 「東京女子高等師範学校長高嶺秀夫特旨叙位ノ件」添付履歴書の記述「安政元年八月十五日生」による。また、『高嶺秀夫先生伝』本文では「安政元年八月十四日」とあるが、冒頭の年譜では「八月十五日」とされている。なお、安政への改元は嘉永7年11月であるが、凶事を避ける災異改元として当該年の元日に遡って元年とみなされたため、嘉永7年=安政元年となる。
  3. ^ 『高嶺秀夫先生伝』7頁(以下『先生伝』と略)。
  4. ^ 『先生伝』10-11頁。
  5. ^ 会津戦争の悲劇として有名な白虎隊士は数え16才から17才の若者から編成されたことから、高嶺は一年違いで自刃を免れた。同様の境遇の者には、明治学院総理を務めた井深梶之助や、日本初の理学博士の一人で東京・京都帝国大学総長などを務めた山川健次郎がいた。ちなみに、長姉の山川二葉はのち女子高等師範学校舎監兼教諭、兄の山川浩は現役軍人にして高等師範学校長を務めた。末妹は大山捨松(星亮一『敗者の維新史』中公新書、1990年など参照)。また、政治小説『佳人之奇遇』(1885年)の筆者として知られる東海散士こと柴四朗も似た境遇であったが、彼の場合は白虎隊士でありながら病気のため籠城組に廻されたという(『ある明治人の記録』)。
  6. ^ 『先生伝』20-30頁。
  7. ^ 『先生伝』付録・追懐談叢:斎藤一馬(旧会津藩士)6頁。
  8. ^ 伊沢はマサチューセッツ州ブリッジウォーター州立師範学校英語版に、神津はニューヨーク州のオルバニー州立師範学校に留学。
  9. ^ 『先生伝』32-39頁。
  10. ^ Krüsi, Hermann (1907). Recollections of My Life, New York: The Grafton Press. Chapter XXXV。ヘルマン(『先生伝』冒頭に写真収録)は高嶺に半年遅れて卒業、コーネル大学に進学して土木工学士号取得。父子ともに来日も果たした(村山英雄 『オスウィーゴー運動の研究』第六章第一節の注8参照)。
  11. ^ 『先生伝』45-47頁(高嶺の家族への手紙)、及び Krüsi, Hermann (1907). Chapter XXXIV参照。
  12. ^ 『先生伝』58-59頁。
  13. ^ "The latter (or Takamine) who had graduated at the end of the previous term, had voluntarily during the autumn some study to which his whole soul inclined; viz., Natural History and Biology combined with Mental Philosophy where he relished most those thinkers who, like John Stuart Mill and Spencer, based their system on the evolution of natural forces as evinced through distinct facts." (『先生伝』 56-57頁/Krüsi, Hermann (1907). Chapter XXXV)
  14. ^ この夏期学校は、高嶺が翻訳した『教育新論』で「理学的実物教授 Scientific Object Lessons」の実践者として紹介された博物学者ルイ・アガシーが、1873-74年にマサチューセッツ州ペキニース島に設立した「アンダーソン博物学校 Anderson School of Natural History, Penikese Island」で指導したスタッフが開校。なお、ワイルダー及びモースはアガシーの直弟子で、ともに博物学校で指導に当たっていた(磯野直秀『モースその日その日 ある御雇教師と近代日本』 有隣堂、1987参照)。
  15. ^ 『先生伝』 55-57頁。
  16. ^ 帰国時に偶然にも同じく再来日したモースと同船したのが縁で、9月から半年間モースの助手として東京大学理学部助教を務めた。当時の動物学教室には岩川友太郎(のち東京師範学校勤務)が在学。この間、高嶺はモースの北海道への動植物採集旅行に同行し、さらに新設の東京大学生物学会(後の日本動物学会及び日本植物学会)の書記にも選ばれた(『先生伝』付録・追懐談叢:岩川友太郎 19-20頁、及び磯野直秀:前掲書など参照)。
  17. ^ 新聞集成明治編年史. 第十四卷』p.212
  18. ^ 明治43年2月24日付の『東京朝日新聞』に「我国師範教育の鼻祖高嶺秀夫逝く」の記事がある。
  19. ^ 『先生伝』175-176頁、及び同付録・追懐談叢:斎藤一馬 6頁。
  20. ^ 『先生伝』176頁。
  21. ^ 『先生伝』50-58頁、村山英雄 『オスウィーゴー運動の研究』第六章第二節「高嶺兄弟とヘルマン・クリュージイ」、国立公文書館「東京師範学校長高嶺秀夫忌服ノ件」明治16年8月参照。
  22. ^ 国立公文書館所蔵の「高嶺秀四郎熊本県農事巡回教師ニ被任ノ件」明治30年6月19日添付履歴書ほか公文書参照。なお、生年月日は「文久元年九月廿一日」。
  23. ^ a b 和声学事始 : メーソンの和声学教育に関する新資料紹介藤原義久、学習院大学『哲学会誌』7号、1982-03-01
  24. ^ 中村道太と帳合の法丸善
  25. ^ 碓井知鶴子「官立東京女学校の基礎的研究 : 在学生の「生活史」の追跡調査」『紀要』第19巻、東海学園女子短期大学、1984年、64-80頁、NAID 110000192745 
  26. ^ 『先生伝』177頁。
  27. ^ 物故会員一覧(日本学士院)。
  28. ^ 高嶺俊夫(読み)たかみね としおコトバンク
  29. ^ a b 『寺田寅彦の生涯』小林惟司、東京図書, 1995、p192-193
  30. ^ a b 高嶺俊夫『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  31. ^ 阪谷芳郎『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  32. ^ ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ! 【ナゼこのおなまえ?学校編】NHK総合、2019年4月4日放映
  33. ^ 後藤牧太による講話速記録「修学旅行の始まり」(茗溪会『教育』第344号,1911年)、『東京高等師範学校沿革略志』1911年、『高嶺秀夫先生伝』1921年など参照。
  34. ^ a b c d e f g h i 「高嶺秀夫先生年譜」(『高嶺秀夫先生伝』)。
  35. ^ 『官報』第907号「叙任及辞令」1886年7月10日。
  36. ^ 『官報』第2545号、「叙任及辞令」1891年12月22日。
  37. ^ 『官報』第4350号「叙任及辞令」1898年1月4日。
  38. ^ 『官報』第7337号、「叙任及辞令」1907年12月11日。
  39. ^ 『官報』第7999号、「叙任及辞令」1910年2月24日。






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