鉄剣・鉄刀銘文 岡田山1号墳出土の「額田部臣」銘大刀

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 鉄剣・鉄刀銘文の解説 > 岡田山1号墳出土の「額田部臣」銘大刀 

鉄剣・鉄刀銘文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/05 15:40 UTC 版)

岡田山1号墳出土の「額田部臣」銘大刀

島根県松江市大草町の岡田山1号墳から出土した鉄刀である。1915年大正4年)に土地所有者によって岡田山1号墳が発見された際の出土品で、保存修理中の1984年昭和59年)に銀象嵌の銘文が検出された[10]。出土当時は完存しており全長は約82センチメートルであったが、その後刀身の上半部が失われ残存長は52センチメートルである。銘文もわずか末尾の12文字が残っているに過ぎず、確認できる銘文は「各田卩臣□□□素□大利□」である[注釈 7][11][12]

「各田卩臣」は「額田部臣(ぬかたべのおみ)」と読む。ウジに関する史料としては隅田八幡宮人物画像鏡に次いで二番目に古い例であり、部民制の表記としての「部」の最も古い史料である[13]。額田部臣は出雲臣と同族であり、出雲国大原郡を本拠としていた[14]

元岡G-6号墳出土の金錯銘大刀(庚寅銘大刀)

福岡県福岡市西区の元岡古墳群G群6号墳から出土した金象嵌銘のある大刀。古墳から出土した金象嵌銘の大刀としては日本で3例目という。長さは74センチ、刀身の棟には「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□」(最後の字は「練」か)の19文字が金象嵌で表されている。庚寅年の正月六日が庚寅となるのは、西暦570年にあたる。2019年国の重要文化財に指定[15][16]

江田船山古墳出土の銀錯銘大刀

江田船山古墳出土鉄刀(国宝)
東京国立博物館展示。
鉄刀(国宝)銘文 「治天下獲□□□鹵大王」表記は写真右上。

1873年明治6年)、熊本県玉名郡和水町(たまなぐんなごみまち)にある江田船山古墳から横口式家型石棺が検出され、内部から多数の豪華な副葬品が検出された。この中に全長90.6センチメートルで、茎(なかご)の部分が欠けて短くなっているが、刃渡り85.3センチメートルの大刀(直刀)があり、その峰に銀象嵌の銘文があった。大正末期に日本刀研師により研磨された[17]。字数は約75字で、剥落した部分が相当ある(研磨の際に失われた可能性が高い)。

治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太和書者張安也

<訓読>

天の下治らしめし獲□□□鹵大王の世、典曹に奉事せし人、名は无利弖、八月中、大鉄釜を用い、四尺の廷刀を并わす。八十たび練り、九十たび振つ。三寸上好の刊刀なり。此の刀を服する者は、長寿にして子孫洋々、□恩を得る也。其の統ぶる所を失わず。刀を作る者、名は伊太和、書するのは張安也[18]

解釈

ワカタケル大王(雄略天皇)の時代にムリテが典曹という文書を司る役所に仕えていた。八月に大鉄釜で丹念に作られためでたい大刀である。この刀を持つ者は、長寿であって、子孫まで栄えて治めることがうまくいく。大刀を作ったのは伊太□(ワ)で、銘文を書いたのが張安である[19]

かつては「治天下𤟱□□□歯大王」と読み、多遅比弥都歯大王(反正天皇)にあてる説が有力であったが、1978年に埼玉稲荷山古墳出土の鉄剣に金象嵌の銘文が発見されたことにより、「治天下獲□□□鹵大王」 と読み、獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇か)とする説が有力となった。

この説によれば、金象嵌の鉄剣と銀象嵌の鉄刀が製作され、それらを下賜された人物が、北武蔵野稲荷山古墳と肥後の江田船山古墳に埋葬されたことになる[注釈 8]

この銘文には、治天下、八十たび、十握などの強い日本調が混じっている。大王と王恩、四尺と一釜、十握と三寸などの前後を対応照応させて、漢文の本来の手法を巧みに利用している。年号はない。『宋書』倭国伝に引く倭王武の上表文にみえる「自昔祖禰 躬擐甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十國 西服衆夷六十六國」(東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国)の表現に対応するかのごとくである。

熊本市出土の「甲子年」銘文鉄刀

熊本県熊本市中央区の熊本城跡から出土した鉄刀である。2022年に実施された理化学器材を用いた文化財調査によって象嵌銘文が発見された[20]。出土状態としては遺構に伴っていなかったが、本来は付近に存在する千葉城横穴に副葬されていたものである可能性がある[20]。鉄刀は全長約55センチメートルと大刀としては短いもので、柄頭を金属板で包む袋頭大刀であるとされる[20]

X線解析によって確認された銘文は6文字で、「甲子年五月カ中カ」が判読されているが、象嵌材質、書体などの詳細は2023年現在は不明である[21]。鉄刀の形態的特徴から、銘文の「甲子年」は604年を指す可能性が高い[21]


注釈

  1. ^ 1978年9月の保存修理の結果。
  2. ^ 例:「二塔天寳十七年戊戌立在之」(『葛項寺造塔記』758 年)
  3. ^ なお、中央木棺からは他に鉄剣3口、鋲留短甲(びょうどめたんこう)1、鉄鏃3、刀子1が検出され、北木棺からは大刀1口、鉄鏃一種、胡簶(ころく)金具1組が検出されている。
  4. ^ 千年以上もその存在が忘れられていたが、菅政友(かんまさすけ[6]、1824年 - 1897年)によって見出され、金象嵌の文字が研ぎ出された。
  5. ^ 表に34字、裏に27字、表裏併せて61字あり、読めるもの49字、全く読めないもの4字、後の8字はわずかに残る線画によって推測。
  6. ^ 倭王とは九州の倭国の王で、後に倭国からヤマトに七支刀が奪われたとの説も有る(古田武彦説)。
  7. ^ 5文字目は「令」「今」「㐱」、6文字目は「河」「珂」「阿」、7文字目は門構えの文字、9文字目は「伊」または「得」、12文字目は「刀」または「也」の可能性がある。
  8. ^ 一方、この「大王」を、ヤマトとは別の九州の大王と見る説も有る(古田武彦説)。それによると、この頃ヤマトの勢力は九州に及んでいなかったことになる。

出典

  1. ^ 推定銘文及び訓読は(埼玉県教委 1979)による。
  2. ^ a b c 村山・国分 1979.
  3. ^ 宮崎 1983, p. 145.
  4. ^ a b 東野 2010, pp. 12–13.
  5. ^ 原島 1993, pp. 11–14.
  6. ^ コラム古代からのメッセージ > 倭の五王の時代 > 七支刀の銘文 (№151)”. 藤井寺市 (2009年6月4日). 2013年11月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月4日閲覧。
  7. ^ 宮崎 1992.
  8. ^ 『日本書紀』神功皇后摂政五十二年九月の条
  9. ^ a b 加藤ほか編 2005.
  10. ^ 池田 1984.
  11. ^ 勝部 1984, pp. 76–77.
  12. ^ 鬼頭 1987, pp. 73–74.
  13. ^ 鬼頭 1987, p. 74.
  14. ^ 岸 1987, pp. 122–123.
  15. ^ 令和元年7月23日文部科学省告示第26号
  16. ^ 文化審議会答申 ~国宝・重要文化財(美術工芸品)の指定及び登録有形文化財(美術工芸品)の登録について~(文化庁サイト、2019年3月18日発表)
  17. ^ 青木・犬竹 1995.
  18. ^ a b 江田船山国宝展実行委員会 2001.
  19. ^ 国宝がやってきた「江田船国宝展」 ~熊本の技と美の1500年~”. 熊本県教育委員会文化課. 2005年2月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月4日閲覧。
  20. ^ a b c 林田・三好 2023, p. 28.
  21. ^ a b 林田・三好 2023, p. 29.


「鉄剣・鉄刀銘文」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「鉄剣・鉄刀銘文」の関連用語

鉄剣・鉄刀銘文のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



鉄剣・鉄刀銘文のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの鉄剣・鉄刀銘文 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS