薩摩藩 石高の推移

薩摩藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/20 10:21 UTC 版)

石高の推移

島津氏の家紋『丸に十文字』

薩摩藩は内検と呼ばれる藩独自の検地を行っていた。俗に言う「薩摩77万石」とは享保内検の石高86万7千石余から琉球分9万4千石余を引いた値である[12]

  • 文禄検地 - 56万9千石余(文禄年間に行われた石田三成奉行による検地の結果)
  • 慶長内検 - 73万2千石余
  • 寛永16年 - 69万9千石余
  • 万治内検 - 74万7千石余
  • 享保内倹 - 86万7千石余
  • 文政9年 - 89万9千石余

年貢は『當申夏麦代銀銘々取納帳』(1836年)に依ると、一石(籾高ではなく現石=玄米高)に対して六斗六升と記される。

歴代藩主

氏名 肖像 官位 在職 享年
1 島津家久(いえひさ) 中納言従三位兼行[注釈 4]薩摩守 慶長6年(1601年) - 寛永15年(1638年) 64
2 島津光久(みつひさ) 従四位上行左近衛中将兼薩摩守 寛永15年(1638年) - 貞享4年(1687年) 78
3 島津綱貴(つなたか) 従四位上行左近衛中将兼薩摩守 貞享4年(1687年) - 宝永元年(1704年) 55
4 島津吉貴(よしたか) 正四位下行左近衛中将兼薩摩守 宝永元年(1704年) - 享保6年(1721年) 73
5 島津継豊(つぐとよ) 従四位上行左近衛中将兼大隅守 享保6年(1721年) - 延享3年(1746年) 60
6 島津宗信(むねのぶ) 従四位上行左近衛中将兼薩摩守 延享3年(1746年) - 寛延2年(1749年) 22
7 島津重年(しげとし) 従四位下行左近衛少将兼薩摩守 寛延2年(1749年) - 宝暦5年(1755年) 27
8 島津重豪(しげひで) 従四位上行左近衛中将兼薩摩守
(隠居後・従三位)
宝暦5年(1755年) - 天明7年(1787年) 89
9 島津斉宣(なりのぶ) 正四位上行左近衛中将兼薩摩守 天明7年(1787年) - 文化6年(1809年) 69
10 島津斉興(なりおき) 参議正四位上兼行大隅守

(隠居後・従三位)

文化6年(1809年) - 嘉永4年(1851年) 69
11 島津斉彬(なりあきら) 従四位上行左近衛中将兼薩摩守
(死去後に贈正一位・権中納言)
嘉永4年(1851年) - 安政5年(1858年) 50
12 島津忠義(ただよし) 参議従一位兼行大隅守 安政5年(1858年) - 明治4年(1871年) 58

薩摩藩家臣団


注釈

  1. ^ ただし、奄美群島は、琉球侵攻以前は琉球王国の支配下にあった。また、琉球侵攻以後は薩摩藩が直轄に統治をしたが、名目上は琉球王国の一部とされた。
  2. ^ 大隅国一宮大隅国正八幡宮修造役が島津荘立荘地である本荘域に賦課されたことに対して、島津荘立荘時以降島津本荘域は勤仕した前例がないことを島津荘荘官達が主張した朝廷に対する書状[2]
  3. ^ ただしこの時点では薩摩:島津義久、大隅;島津義弘、日向諸県郡島津久保と分割して宛われた[4]
  4. ^ 公文書において官が低く位が高いときは、位・官の間に「」の字を入れる。薩摩国は中国なので薩摩守は正六位下に相当。
  5. ^ 甑島(江戸時代の読みは「こしきじま」)には小川季直が築城した亀城(かめじょう)があり、田布施には亀ヶ城(かめがじょう)があった。小川氏は田布施にも居住している。
  6. ^ 特に出水郷の郷士集団は事実上の鎖国状態であった薩肥国境地帯の防衛・警備などを任ぜされ、「出水兵児(いずみへこ)」と呼ばれた。

出典

  1. ^ a b c 藩名・旧国名がわかる事典 薩摩藩(コトバンク)
  2. ^ 日隈正守「島津荘に関する一考察 : 成立期を中心に」『鹿児島大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学編』第66巻、鹿児島大学、2015年3月11日、1-13頁、CRID 1050564288838588544hdl:10232/23160 
  3. ^ 三木靖『戦国史叢書 10・薩摩島津氏』(新人物往来社、1972 年)101-103頁
  4. ^ 参考文献『島津義弘の賭け』山本博文など
  5. ^ 参考文献 『鹿児島県の歴史』「苦悩する藩政」山川出版社
  6. ^ 『沖縄県史料 前近代1』(沖縄県教育委員会、1981年)「琉球国高究帳」
  7. ^ 上念司『経済で読み解く明治維新 : 江戸の発展と維新成功の謎を「経済の掟」で解明する』ベストセラーズ、2016年。ISBN 9784584137239。"第5章"。 
  8. ^ 福元啓介「文化・文政期における鹿児島藩の藩債整理 : 鴻池との関係を中心に」『論集きんせい』第38号、近世史研究会、2016年5月、1-25頁、CRID 1520853834117011584ISSN 0386779X 
  9. ^ 明治4年11月14日太政官布告(第595)
  10. ^ 明治12年4月8日太政大臣三条実美通達 『鹿児島県管轄大島・喜界島・徳ノ島・沖永良部島・与論島ヲ以テ大島郡ト為シ,大隅国ヘ被属候条,此旨布告候事』
  11. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 島津家(コトバンク)
  12. ^ 村野守治『島津斉彬のすべて 新装版』 新人物往来社、2007年、ISBN 978-4-404-03505-9
  13. ^ 司馬遼太郎「南方古俗と西郷の乱」『古住今来』日本書籍株式会社、1979年
  14. ^ 『江戸の少年』ISBN 978-4582760729、『武士道とエロス』ISBN 978-4061492394、両書とも氏家幹人
  15. ^ 松本彦三郎『郷中教育の研究』(第一書房、1943年)55頁
  16. ^ 鹿児島県史料『旧記雑録前編二』巻四十五、2341
  17. ^ 竹下幸佑, 酒井利信「近世の薩摩藩郷中における武芸教育に関する史的研究」『武道学研究』第42巻Supplement、日本武道学会、2009年、2-2頁、doi:10.11214/budo.42.2“「Ⅲ 考察」” 
  18. ^ 三品彰英『新羅花郎の研究』305-310頁
  19. ^ 季刊『日本主義』(No22・2013年夏、白陽社)特集「近代の礎をつくった幕末諸藩の教育力」「郷中教育が培った薩摩の士魂」
  20. ^ 鹿児島県史料『旧記雑録追録八』巻百六十五、247
  21. ^ 『旧記雑録前編二』巻四十六、2509-2
  22. ^ 桑波田興「戦国大名島津氏の軍事組織について」(福島金治編『島津氏の研究』吉川弘文館、1983年)160-171頁
  23. ^ 中村明蔵『薩摩民衆支配の構造 : 現代民衆意識の基層を探る』南方新社、2000年。ISBN 4931376363全国書誌番号:20085691https://id.ndl.go.jp/bib/000002901378 
  24. ^ 押野昭生「<論説>「麓」集落に関する二・三の検討」『史林』第40巻第4号、史学研究会 (京都大学文学部内)、1957年7月、316-345頁、CRID 1390290699825282432doi:10.14989/shirin_40_316hdl:2433/249307ISSN 0386-9369 
  25. ^ 『幕末の薩摩』原口虎雄、中公新書
  26. ^ 鹿児島農地改革史, 昭和29, p.9.
  27. ^ 出水郷土誌編集委員会『出水郷土誌』、出水市役所、1968、281~476頁。
  28. ^ 鹿児島県史, 第二巻, p.161.
  29. ^ 児玉幸多:鹿児島県の町村制度, 鹿児島史林, 第1号, 昭和13年, pp.39~40.
  30. ^ 『薩摩政要録』
  31. ^ 秀村選三『薩摩藩の基礎構造』
  32. ^ 『鹿児島県史 第二巻』






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