薩摩藩 薩摩藩の概要

薩摩藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 23:11 UTC 版)

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薩摩藩庁が置かれた鹿児島城
薩摩藩
外様
77万石
薩摩藩の位置
薩摩藩邸跡石碑(京都市・伏見区)

概要

江戸時代に鹿児島に藩庁を置いた外様藩。鎌倉時代の頃より薩摩を支配してきた島津家を藩主とする。薩摩藩は通称で、正式名称は鹿児島領版籍奉還後に鹿児島藩と改められた。表高は72万9000石[1]琉球を含めた最高石高は90万石(籾高であり、実際の玄米高は約半分)と加賀藩に次ぐ大藩を形成した。

薩摩藩の家臣団の家格は正徳元年までに整備され、御一門(4家、私領主)、一所持(21家 私領主)、一所持格(約20家)、寄合寄合並(寄合、寄合並をあわせ約60家。「三州御治世要覧」ではこの家格を「家老与」と呼んでいる。以上が上士層で家老を出すことができる。但し、寄合並は一代限りの家格のため、変動が激しい)、無格(2家)、小番(約760家)、新番(約24家)、御小姓与(約3000家。ここまでが城下士)、与力(赦免士や座附士とも、准士分)の10の家格に分かれていた。

薩摩藩は一般的に日向国那珂郡及び児湯郡を領有し、佐土原城(宮崎県宮崎市佐土原町)に藩庁を置いていた島津氏支族佐土原島津家を藩主とする佐土原藩支藩としたとみられている。また、佐土原藩主家を薩摩藩内では垂水島津家の下に位置づけるが、藩外では大名分の佐土原藩の方が上という二重基準が『鹿児島県史料』でも見られる。もっとも、国立公文書館内閣文庫の『嘉永二年十月二日決・本家末家唱方』での幕府老中見解において『本家末家唱方之儀、領知内分遣し一家を立て候末家与唱、公儀から別段領知被下置被召出候家は、本家末家之筋者有之間敷』とあるため、江戸時代後期以降において垂水島津家の分家にあたる佐土原藩との「家本・家分かれ」と言えても支藩と認識されていたかは一考を要する。

幕末には長州藩とともに明治維新の実現に指導的役割を果たした。明治新政府に西郷隆盛大久保利通黒田清隆松方正義森有礼ら有力な人材を多数輩出し、新政府の中軸となった。1871年明治4年)の廃藩置県により鹿児島県となった[1]

歴史

中世

島津家は、鎌倉時代初期に薩摩・大隅・日向3ヶ国の守護に任ぜられて以来、この地方を本拠地として来た守護大名戦国大名であり、1587年天正15年)に豊臣秀吉九州征伐によって豊臣家に服属、薩摩・大隅・日向の一部に跨がる所領の支配を認められた[注釈 2]

秀吉による文禄・慶長の役の間、留守を預かる武士の青少年の風紀が乱れたことがあり、これを心配した留守居役の家老たちが考案した青少年教育システムが郷中教育といわれている(詳細)。

近世

薩摩藩直営の薬園であった佐多旧薬園
洋式軍備や藩営工場など集成館事業に関する建物が見える。(1872年)
第13代将軍徳川家定の御台所となった天璋院

1600年慶長5年)の関ヶ原の戦いでは西軍につくが、徳川四天王の一人井伊直政の取りなしで本領を安堵され、島津義弘の三男・家久が当主と認められた。この時点をもって正式な薩摩藩成立と見なすのが通説である[3]

1609年(慶長14年)、琉球王国に出兵して服属(琉球侵攻)させ、琉球の石高12万石を加えられた。奄美群島は琉球と分離され、薩摩藩が大島代官、喜界島代官、徳之島代官、沖永良部代官を配置して直接支配した。沖縄本島以南は那覇に琉球在番奉行を派遣して琉球を管理したが、実際には琉球は大幅な自治権を行使していた。薩摩藩の琉球支配は、年貢よりもむしろ琉球を窓口にした中国との貿易が利益をもたらした。また、薩摩には奄美産の砂糖による利益がもたらされた。その他加増を受けて、従来の56万石から72万石の大藩となる(その後、石高の高直しなどにより、表高は77万石となる)。

旧来の支配者から転封を経ずに近世大名に移行した薩摩藩は、旧来の支配体制を残し、外城制(武士を鹿児島城下に強制移住させず、領内に分散した外城と呼ばれる拠点に居住させる。1784年天明4年)呼称をと改める)や門割(かどわり、農民を数戸ごとに「門」(かど)というグループに分け、門ごとに土地を所有させる)などの独特の制度を持った。

しかし、多くの郷士を抱え、広い意味での士分の者が全人口の約40%弱を占めていた。例えば島津家文書「要用集 四」所収の1852年(嘉永5年)の「宗門手札御改人数総之事」によると、奄美・琉球を除いた薩隅日3か国の合計人口62万2365人中、城下士・郷士・人躰外士・私領家来人躰までで17万0694人(27%)、諸士又内・諸座附などが7万3634人(12%)となっている。また「藩制一覧表」などによると、明治3年頃の琉球を除いた薩隅日三国の合計人口77万2354人の内、士族が19万2949人(25%)、足軽以下の卒族が9万5569人(12%)となっている。1872年(明治5年)の卒族廃止の際、薩摩藩の卒族は大多数が平民となったが、族籍が士族となった者は全人口の4分の1を超えていた(なお壬申戸籍における明治維新直後の全国の華士卒族の割合は全人口の約6%である)。また藩内の土壌の多くは水持ちが悪く、稲作には適さないシラス台地であったため土地が貧しく、表高は77万石でも実質は35万石ほどの収益しかなかった。かつ、南西諸島ほどではないが台風火山噴火などの災害を受けやすい立地であったため、藩政初期から財政は窮迫していた。

さらに、徳川幕府の有力藩に対する弱体化政策の下で、大規模な御手伝普請を割り当てられた。特に1753年宝暦3年)に命じられた木曽三川改修工事(宝暦治水)の多大な出費により、所領が現場から遠いこともあって藩財政は危殆に瀕した。工事を指揮した薩摩藩家老平田靱負は、多くの犠牲者と藩財政の疲弊の責任を取って工事完了後に自害している。

第8代藩主・島津重豪は、閉鎖的であったそれまでの藩政を改革し、1773年安永2年)に、藩校造士館と演武館の設立を手始めに、医学院や明時館と次々に学校を設立。『成形図説・百巻』(農業書)など各種図書の編纂事業も行った。また江戸幕府との結びつきを強めるため、三女の茂姫を第11代将軍徳川家斉に嫁がせた(ちなみに外様大名から将軍御台所を出したのは薩摩藩島津家だけである)。これら重豪の豪奢な事業により薩摩藩の全国的な政治的影響力は格段に上がったものの、藩財政はさらに困窮の度を増した。

その後1827年文政10年)、調所広郷を中心に薩摩藩の天保改革が断行され、藩債整理[4]砂糖専売制の強化、琉球貿易の拡大などを打ち出して、財政は好転した。砂糖専売制については、大島喜界島徳之島の三島砂糖総買入れ制度を実施して莫大な利益を得た。1851年(嘉永4年)に第11代藩主となった島津斉彬の下で、洋式軍備や藩営工場の設立を推進し(集成館事業)、また、養女の篤姫を第13代将軍・徳川家定の正継室にするなど、幕末の雄として抬頭した。

斉彬の死後、藩主・島津忠義の実父にして斉彬の異母弟にあたる島津久光が実権を握り、「国父」・「副城公」と呼ばれた。

近代

幕末には当初久光の主導で公武合体派として雄藩連合構想の実現に向かって活動するが、薩英戦争を経て西郷隆盛や大久保利通ら倒幕派に藩の主導権が移り、長州藩と薩長同盟を結んで明治維新の原動力となった。新政府に西郷や大久保のほか、黒田清隆、松方正義、森有礼などの有力政治家を輩出し、明治新政府の中軸となった[1]

明治4年11月14日の廃藩置県の布告[5]により、薩摩藩は鹿児島県に改組される。これにより、薩南諸島トカラ列島(十島)を含む薩摩藩領は鹿児島県となる。琉球王国は廃藩置県で一時的に鹿児島県の管轄(「外琉球国」)となるが、明治5年9月14日琉球藩設置により明治政府の直轄となる。奄美群島は従前より薩摩藩の直轄であり実効支配が行われており、廃藩置県により実効支配上先行して鹿児島県に編入、追って1879年(明治12年)4月太政官通達[6]により大隅国に編入されて正式に日本および鹿児島県の領域となった。

島津家は、1884年(明治17年)の華族令により公爵となり、明治、大正時代に政財界で重きをなした[7]

石高の推移

島津氏の家紋『丸に十文字』

薩摩藩には内検と呼ばれる藩独自の検地を行っていた。俗に言う「薩摩77万石」とは享保内検から琉球分9万4千石余を引いた値である[8]

  • 文禄検地 - 56万9千石余(文禄年間に行われた石田三成奉行による検地の結果)
  • 慶長内検 - 73万2千石余
  • 寛永16年 - 69万9千石余
  • 万治内検 - 74万7千石余
  • 享保内倹 - 86万7千石余
  • 文政9年 - 89万9千石余



注釈

  1. ^ ただし、奄美群島は、琉球侵攻以前は琉球王国の支配下にあった。また、琉球侵攻以後は薩摩藩が直轄に統治をしたが、名目上は琉球王国の一部とされた。
  2. ^ ただしこの時点では薩摩:島津義久、大隅;島津義弘、日向諸県郡島津久保と分割して宛われた[2]

出典

  1. ^ a b c 藩名・旧国名がわかる事典 薩摩藩(コトバンク)
  2. ^ 参考文献『島津義弘の賭け』山本博文など
  3. ^ 参考文献 『鹿児島県の歴史』「苦悩する藩政」山川出版社
  4. ^ 福元啓介 「文化・文政期における鹿児島藩の藩債整理 鴻池との関係を中心に」 論集きんせい (38), 1-25, 2016-05
  5. ^ 明治4年11月14日太政官布告(第595)
  6. ^ 明治12年4月8日太政大臣三条実美通達 『鹿児島県管轄大島・喜界島・徳ノ島・沖永良部島・与論島ヲ以テ大島郡ト為シ,大隅国ヘ被属候条,此旨布告候事』
  7. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 島津家(コトバンク)
  8. ^ 村野守治『島津斉彬のすべて 新装版』 新人物往来社2007年ISBN 978-4-404-03505-9
  9. ^ 司馬遼太郎「南方古俗と西郷の乱」『古住今来』日本書籍株式会社、1979年
  10. ^ 『江戸の少年』ISBN 978-4582760729、『武士道とエロス』ISBN 978-4061492394、両書とも氏家幹人


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