神戸高塚高校校門圧死事件 その後の経過

神戸高塚高校校門圧死事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/26 08:32 UTC 版)

その後の経過

文部省はこの事件を一教諭と一生徒の問題であり、学校側に何ら問題は無いとの認識を示した。校長、兵庫県教育委員会は文部省の意向を受け、教員個人の責任を主張した。刑事裁判では細井の過失を認定したものの学校側の責任や管理教育の是非については触れられなかった。

7月20日に全体保護者会が行われた。その模様を録音したカセットテープがあり、冒頭には以下の発言があった。

「保護者会は従来から本校では一切公開していないはずのもので、マスコミの方に流れまして、生徒がひどく困っております」と保護者を批判した。「また、何かご要望がありましたら、そのときにもう1回来てもらいましたら、録音は聞いてもらえると思います」と発言した。

それにもかかわらず、兵庫県は「録音テープは、公文書の公開等に関する条例において公開の請求の対象にならない。会議の内容を録音したテープの反訳書および、全体保護者会の会議録は初めから存在しません」と説明した。高校はテープを処分したが、PTAはテープを保管していた。音声が公開されたのは、事件から8年後のことであった。

兵庫県教育委員会は7月26日、細井を懲戒免職処分、また管理責任を問い当時の校長を戒告、教頭と教育長を訓告、教育次長2名を厳重注意とする処分を行った。しかし、校門を閉めようと言い出した教員や生活指導部長に対しては処分は無かった。また、校長から出されていた辞表を同日付で受理した。細井はその後懲戒免職処分を不服として申立を行った。

9月に教育委員会から新校長が就任。(事件の説明を含む)今後の保護者会の開催を打ち切ることを宣言した。

11月16日、学校側が安全管理上の過失を認めた形で、兵庫県が女子生徒の遺族に損害賠償金6,000万円を支払うことで示談が成立した。

また、遅刻者に校庭を2周走らせたり、スクワット系柔軟体操を数十回課していた理由について、1991年4月の転勤者の辞令交付のオリエンテーションで新校長は「8時35分の出席確認に間に合わないようにするため」と説明した。つまり、教室でのホームルームは8時35分開始となっているため、校門指導での遅刻を出席簿や調査書に反映させるため、罰を課して間に合わないようにしていた、という[10]。こうした措置は、ちゃんと登校時間を守った生徒が、守らなかった生徒と成績が同じになることは不公平だという考えと、校則を順守させることが、校内の風紀を正すことに繋がるという認識から来たものと考えられる。

細井への刑事処分

7月21日に、兵庫県警察による実況見分が行われた。その結果門扉はヘルメットが割れるほどの速度で押されていたことが分かった。生徒が集団で登校しているのに細井が勢いよく門扉を閉めたこと、細井は過去にも門扉で生徒のスカートなどを挟んだことがあること、などから細井は門扉を閉めることの危険性を把握しながら安全を充分確認しなかったことが明らかになり、業務上過失致死の容疑で取り調べられた。

細井は、業務上過失致死罪で神戸地方検察庁送検され、起訴された。刑事裁判では、細井は「門扉の閉鎖は教員3人で行う共同作業であり安全・合理的な方法。学校から安全面の指導や注意はなく業務性は無い。わずかな隙間に生徒が頭から走り込んでくることは予見不可能で過失責任は無い。充分な安全策も無く教師に校門指導をさせた学校に責任があり、誤った教育理念を押し付けた学校管理者や兵庫県教育委員会、文部省の責任が問われるべき」などとして無罪を主張した。

神戸地方裁判所1993年(平成5年)2月10日、「門扉の閉鎖は反復・継続して行う行為であり、その重量、構造から登校時に閉鎖することは、門扉を生徒の身体に当てるなどして身体に危害を与える恐れがあり業務上過失致死罪の業務にあたる」とした上で「生徒が制裁などを避けるため閉まりかけの門に走り込むことは予測できた。他の当番教師との安全面の打合せはなく過失があった」と、神戸地方検察庁の主張をほぼ認める形で、細井敏彦に禁錮1年・執行猶予3年の有罪判決を言い渡した。細井は「判決には不服だが、自身や家族の心労を考えて控訴しない判断をした」として、大阪高等裁判所に控訴せずに有罪が確定判決となった。

細井の有罪確定に伴い、教育職員免許法に基づき同人は教員免許の欠格事由に該当し、細井が起こしていた懲戒免職不服申立審理は中止された。

細井による書籍出版

細井は、有罪確定直後の1993年(平成5年)4月にこの事件を題材とした本を実名で出版し、「 私は、あの警察的な校門指導を 何の疑問も抱くことなく率先してやってきた。 それが教師としての勤めであり、正義だと思い込んで······」や「兵庫県教委による、指導体制強化の通達により、他県に例を見ない厳しい生徒指導体制が確立した。兵庫県の高校が生徒の非行や校内暴力などで荒れて いた状況へのやむにやまれぬ手段という面があったにせよ、専任の生徒指導部が校則によって生徒の非行を取り締まるという警察的活動を促進する素地が作られたのも事実である。」と述べており、学校から県教委によって、警察的な生徒指導を強いられ、それに慣れさせられていた自己の態度には、一定の反省の色が見られる。あくまで、細井の主張は、業務上過失致死傷罪が適用されるほどの過失はなく、マスコミの過剰報道とバッシング、社会制裁なども行き過ぎていたということである。

近年になり、細井の著書の内容について、『「警察的な校門指導を正義だと思っていた」と述べていて、基本的には自らの行動に問題はなかったという姿勢を貫いている』と批判する声があるが、細井の著書に、警察的な校門指導についての記述は、上記二か所にしか見いだせない。

門扉の撤去

現在の神戸高塚高校校門

学校は、事件現場となった校門の門扉を事件直後に撤去しようとしたが、「事件の風化を図っている」などとして保護者や一部住民らが反発した。「判決前の撤去は好ましくない」とする裁判所の意見を受けて保留したが、細井の有罪確定を受けて再び校門撤去を進めた。撤去後の門扉を溶解工程に回すことなどの決定が、PTAや保護者に説明することなく記者会見で明らかにされて保護者や住民らは反対したが、1993年(平成5年)7月30日に小競り合いの中で撤去されて従前よりも小型で軽量な門扉が設置された。

門扉の撤去は不当だとして工事費などの返還を求める住民が訴訟を起こすが、1999年(平成11年)7月12日の最高裁第三小法廷の判決で、学校側の措置を適法として住民の訴えを棄却する判決が確定した。


  1. ^ 校門圧死事件から29年 犠牲生徒悼み集会 神戸高塚高校”. 神戸新聞NEXT (2019年7月6日). 2020年7月3日閲覧。
  2. ^ 『校門の時計だけが知っている —私の「校門圧死事件」』草思社、86-93頁。 
  3. ^ 『校門の時計だけが知っている —私の「校門圧死事件」』草思社、102-103頁。 
  4. ^ 『校門の時計だけが知っている —私の「校門圧死事件」』草思社、143-144頁。 
  5. ^ 『校門の時計だけが知っている —私の「校門圧死事件」』草思社、16-17頁。 
  6. ^ 『校門の時計だけが知っている —私の「校門圧死事件」』草思社、143-144,148頁。 
  7. ^ 『校門の時計だけが知っている —私の「校門圧死事件」』草思社、112頁。 
  8. ^ 『校門の時計だけが知っている —私の「校門圧死事件」』草思社、145頁。 
  9. ^ 1993年2月11日付朝日新聞朝刊
  10. ^ 私達教師は一体何をしているのか~1(神戸県立支部) 兵庫県高等学校教職員組合1995年県高支部ニュース 2005年06月07日
  11. ^ 朝日新聞神戸支局 編「少女・15歳 神戸高塚高校校門圧死事件」148ページ






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