江口冨士枝 経歴

江口冨士枝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/15 18:52 UTC 版)

経歴

長崎県長崎市で、美容室を経営していた両親のもとに生まれる[3]。7歳の時に大阪へ移り、高校卒業後は父の方針により、難波の髙島屋大阪店にある実家が経営する美容室で働いていた。1952年大阪薬科大学(現:大阪医科薬科大学)に入学し[3]、冨士枝が2年の頃に行われた全日本卓球選手権女子シングルスで準優勝し、翌年の同選手権では決勝で田中良子を破り優勝を果たした。

その後、1954年に日本代表に初めて選出され、同年ウェンブリーで行われた世界選手権では初出場ながら女子シングルスで3位に入った。3年後にストックホルムで行われた同選手権では女子シングルス・混合ダブルス・女子団体の3種目で優勝を果たした。1959年ドルトムント大会を最後に、世界選手権から引退した。

選手引退後は大阪卓球協会会長、日本卓球協会副会長、同協会のレディース委員会委員長を務め、日本卓球界の発展に貢献した。2010年10月、ニッタク卓球教室大阪枚方校(コスパ御殿山内)のアドバイザーコーチ就任。

2021年5月28日、兵庫県川西市の病院で膵癌で死去[4]。88歳没。

主な戦績

脚注

外部リンク


  1. ^ 歴代会長・副会長・専務理事・事務局長日本卓球協会
  2. ^ 夢と感動と愛を与えた日本卓球界の偉人5人”. 【SPAIA】スパイア (2016年7月23日). 2020年11月14日閲覧。
  3. ^ a b 「レールを引かれた上を歩くほうが 幸せに見えるかもしれないけど、 本当は抑えつけられたほうが強くなる」江口冨士枝”. 卓球王国アーカイブ. 2021年7月7日閲覧。
  4. ^ 卓球元王者、江口冨士枝さん死去 50年代に活躍”. 東京新聞 (2021年6月18日). 2021年6月19日閲覧。


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