橘花 (航空機) 第七二四海軍航空隊

橘花 (航空機)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/26 13:35 UTC 版)

第七二四海軍航空隊

カラー処理された画像

日本海軍は橘花を量産配備する予定だった[3]。橘花による航空作戦の実施に向けて編成されたのが第七二四海軍航空隊である[注釈 1]。1945年(昭和20年)7月1日、伊東祐満大佐が司令(副長兼務)に任じられる[4]。飛行長は多田篤次少佐[4]。原隊は神ノ池飛行場と定められ、横須賀飛行場で開隊した。定数は橘花16機・九九式艦上爆撃機24機・練習機12機である。

7月15日に練成を行う三沢飛行場に移り、艦爆による飛行訓練が始まったのは8月1日からである。隊員に選抜されたのは、6月末日をもって解隊したばかりの三沢海軍航空隊で飛行訓練を受けていなかった予科練甲飛14期生100名と16期生200名であった。飛行訓練が凍結されたのちに入隊した生徒ばかりのため、艦爆すら満足に飛ばせない状況下にあった。

したがって、11月に三浦半島へ展開させることを目標に、わずか3ヶ月の訓練が実施されることになった。さらに橘花は極端に航続距離が短いことから、敵基地へ強行着陸後、白兵戦を展開することも考えられており、陸戦の訓練も要求された。しかし、訓練開始からわずか半月で終戦を迎えたため、無謀な訓練は終了することになった。

エンジン

試作二号機から外されたエンジン

橘花には当初ネ12B(推力320kg)が搭載される予定であった。しかし1945年(昭和20年)4月、より高推力のネ20に変更された経緯がある。ネ12Bを搭載した場合、初風エンジンを搭載する予定であった。

ネ20は日本初の実用したターボジェットエンジンである。諸元は、全長1800mm、直径620mm、全重量474kg、推力475kg、軸流式コンプレッサー8段、タービン1段、回転数11000rpmである。これは空技廠荏原製作所川崎市中原区)その他メーカーの協力にて設計・製造された。エンジン寿命は連続運転で約40時間と非常に短かった。これは推力軸受座金の焼付きがあったためで、小柴定雄博士(当時日立製作所安来工場、現日立金属冶金研究所)が開発した、当時最高性能の工具鋼Cr-W鋼(イ513)によってなんとか実用化の目処を得た。

ドイツへ派遣された伊号第二九潜水艦にはジェットエンジンの実物を含む多くの技術資料が搭載されていたが、この潜水艦は途中で入港した昭南からの出港後に撃沈された。したがって橘花製作に役立つ資料は、昭南で降ろされ先に飛行機で運ばれたBMW 003Aの縮尺断面図(フィルムから引き伸ばしされたキャビネ判の写真一枚のみであったとされる)と、ユンカース Jumo 004Bの実物見学記録のみであり、これらがかろうじて日本に届いた、という有様であった。

当時ジェットエンジンのタービンブレードを製作するのに必要なニッケルモリブデンなどの耐熱合金用材料も枯渇していた最中に、これらのわずかな資料を参考に、たったの1年でエンジンを造り、低出力ながらも実用運転状態までこぎつけたことは、ネ10・ネ10改(推力230kg)、ネ12(推力300kg)・ネ12Bなど、それまでの独自開発経験の蓄積があったとはいえ、まさに国力を超えた技術者達の執念というほかに無かった。種子島時休中佐率いる設計チームはそれまで設計を進めていた軸流式+遠心式のネ12Bを放棄し、新たに軸流式のネ20を開発した形になるが、開発の方向性が間違っていなかったことを確認して自信を深めたという。

頭記号の「ネ」とは「燃焼ロケット」の略である。また当時はジェットエンジンのことを「タービンロケット」と呼んでいた。ネ20は戦後アメリカ軍に接収され、一部がノースロップ工科大学の教材となっていたが、展示のために日本に貸与された際に、当時の設計者が「ネ20は俺の息子みたいなものだ。息子を返す親がどこにいる」とアメリカへの返還を拒否した。とんでもない横紙破りであったが、ノースロップ工科大学はこれに対し「永久無償貸与」で応え、生まれの地であるIHI(石川島播磨重工業)に現在も展示されている。これとは別にスミソニアン航空宇宙博物館別館にも2基が展示されている。

推力を20%増した、改良型のネ20改が設計されていたが、試作までには至らなかった。ネ20改は近年発見された500枚にも及ぶ完全なる設計図によると軸流式コンプレッサーが8段から6段に変更されており、エンジンの全長も短くなって軽量化されている。推算値では、速度が15%増し、燃費が24%増したという。

海軍略符号について

橘花の海軍略符号は、現存する資料等では確認されていないが、インターネット上やプラモデルなどで、J9Y(Yは空技廠を意味する記号)、J9NまたはJ10N(Nは中島飛行機を指す記号)などと表記されることがある(秋水がJ8Mなので、その次ということにしたと思われる)。しかし、Jは陸上戦闘機(局地戦闘機)を意味する機種記号であるが、橘花の分類は特殊攻撃機(海軍略符号はM)なので間違いである。厳密にはM7NかM8N(晴嵐の次ならM7、晴嵐との間に藤花を挟むならM8)とする方が妥当である。

ただし、橘花にも海軍略符号が付けられていたが、終戦時に軍機密として書類が焼却され不明となったとする説や、米軍の調査に関係者が口頭でJ9Nと答えたとする説もあるため、一概には橘花の海軍略符号の存在を否定できない状態にある。


注釈

  1. ^ a b c d #海軍軍備(6)特攻戦備p.50『橘花|(目的)近距離に近接し來る敵艦船を攻撃するに適し且多量生産に適する陸上攻撃機を得るに在り|(型式)タービンロケット 双發 単葉型|主要寸度(米)極力小型とし折畳時の寸度全幅五.三 全長九.五 全高三.一〇|(装備原動機)TE一二型 二基|(搭乗員)一名|最高速度(節)海面上三三五 高度六〇〇〇米で三六五|(航続力)海面上二〇〇浬 高度六〇〇〇米で三〇〇浬|(上昇力)記載なし|降着速度(節)八〇|爆弾(瓲)五〇〇|(無線兵装)二式一號無線電話機 受話機のみ|担任航空隊(開隊年月日)七二四空(二〇.七.一)|(記事)試作実驗中 豫定期日を約半ヶ年経過したが完成せず』
  2. ^ 正確にはネ20改ターボジェットを装備しているので橘花改にあたるがゲーム内表記は橘花になっている。

出典

  1. ^ 光人社,「海軍空技廠: 誇り高き頭脳集団の栄光と出発 - 第 2巻 - 229 ページ」1985
  2. ^ #海軍軍備(6)特攻戦備p.52『(三)特殊機生産実績竝に見透(二〇年七月一五日航本總務二課)』
  3. ^ #海軍軍備(6)特攻戦備p.51『(二)特殊機整備豫定(二〇年六月二〇日航本總務一課)』
  4. ^ a b 昭和20年7月24日(発令7月1日付)海軍辞令公報(甲)第1875号 p.11」 アジア歴史資料センター Ref.C13072106100 
  5. ^ Smithsonian National Air and Space Museum
    The History of Japan’s First Jet AircraftPosted on Wed, September 28 2016 by: Russell Lee
    Nakajima Kikka (Orange Blossom)





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