東海道五十三次 (浮世絵) 保永堂版以外の五十三次

東海道五十三次 (浮世絵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/23 08:53 UTC 版)

保永堂版以外の五十三次

保永堂版の商業的成功により、以後、諸版元から五十三次作画注文がなされた。それらは20数種の揃物の他に張交絵、狂歌本、双六、千社札、絵封筒などが確認されており全部で40種程度あるとされている[59][60][61]。ただし全宿版行に至らないものもある[62]。 この中で、論者間での評価の高いものは、#五十三次図一覧でも掲載される、3.「行書版」[63][64]と14.「隷書版」である[63][65]。対して、晩年作の22.「東海道五十三次図会(竪絵)」は、太平洋戦争以前の論者には、化学合成された派手な発色の顔料が嫌悪された[63][66][67][注釈 7]

以下に、主な揃い物を版行年代順に挙げる。

番号 題名(通称) 版元 版行年 判型・寸法 枚数 特徴 図版
1 東海道五拾三次之内(保永堂版) 保永堂・仙鶴堂 天保5年(1834年)頃 横大判(約26.5×39センチ)[70] 55枚 本文参照。
保永堂版日本橋。メトロポリタン美術館蔵。
2 東海道五拾三次(狂歌入) 佐野屋喜兵衛 天保11-13年(1840-42年) 横中判(約19.5×26.5センチ)[70] 56枚 55名の狂歌が添えられる。詩と絵の内容は必ずしも一致していない。大判を半切した中判の紙を使い切るため、京師をもう1図増して偶数とした[71]
狂歌入日本橋。メトロポリタン美術館蔵。「日本橋/たゞ一すぢに都まで/遠くて近きはるがすみかな/あのや幸久」[72]
3 東海道(山田屋版) 山田屋庄次郎 天保11年-13年(1840年-42年) 横八切判 56枚 「狂歌入」同様、八等分した紙を使い切る為、内裏(大内)を加え、56図とする。絵の上下に紅霞を、周囲に藍二重枠を置く[73][74][75][76]
4 東海道五十三次之内(行書版) 江崎屋辰蔵江崎屋吉兵衛。後に山田屋庄次郎 [77] 天保12-13年(1841-42年)頃 横間判(あいばん、約33×23.5センチ)[78] 55枚 題字が行書体。保永堂版との図柄近似が見られる。大判より一回り小さい[79]。彫摺の簡略化が見られる[80]
行書版日本橋(山田屋版)。ボストン美術館蔵。#五十三次図一覧の江崎屋版とは絵柄が異なる。
5 東海道五十三次之内 不明 天保年間(1830年-1844年)か 十六切判(大判を16等分したもの) 不明 1.保永堂版の縮図。見附・浜松宿が確認されるが、総数は不明[81][82]。内田実は、広重筆なのか確実でないと述べる[82]
6 東海道(有田屋版) 有田屋清右衛門 天保14年-弘化4年(1843-47年) 横四切判 56枚 栞型朱枠に「東海道」と連番が記される。保永堂版に近似した宿駅図が多い。最後は「五十六/五拾三次大尾」の「大内(内裏)」[83][84][85]
有田屋版日本橋。ホノルル美術館蔵。
7 東海道五十三次細見図会 村鉄 弘化年間(1844-48)頃 縦大判 12枚か 中央を雲型で仕切り、上に数駅を鳥瞰図で、下に旅中人物を描く。三島宿まで確認される[86][74]
8 東海道五十三對(対) 伊場屋仙三郎伊場屋久兵衛遠州屋又兵衛伊勢屋市兵衛小島屋重兵衛海老屋林之助 弘化年間(1844年-48年) 縦大判 55枚 広重(17図)と三代歌川豊国(8図)・歌川国芳(30図)の「歌川三羽烏」で分担した。下三分の二に絵、右上に題字、左上に宿駅に関する詞が記される[87][88]
9 東海道五十三対替絵 若狭屋与市 弘化年間(1844年-48年) 十二切判 36枚か 宿駅に縁のある人物を描く[89][82]。「広重」(内田実)によれば揃物とは異なる、としている[76]
10 東海道五十三次名所続画(豆判東海道) 上州屋金蔵 弘化年間(1844年-48年) 二十切判 60枚 大判1枚に20図(縦5×横4)を収める。鎌倉金沢江ノ島と、近江八景2図の計5図を加え、60図に[89][82][73]
11 東海道五十三次細見図会 村鉄 弘化年間(1844年-48年)頃 縦大判 12枚まで確認 中央を雲型で仕切り、上三分の一に宿駅を鳥瞰図で、下三分の二に道中人物を描く。三島宿まで確認される[90][74]
12 五十三次(人物東海道) 村田屋市五郎 弘化4年(1847年)-嘉永5年(1852年) 縦中判 56枚 宿駅風景を切り捨て、道中の人物を大きく描いている。京を2図にして56図に[91][77][92][93][94][95]
13 東海道張交図会 伊場屋仙三郎。後に丸屋清次郎 嘉永初年(1848年以降)。 縦大判 12枚 1図に4・5宿を組み合わせる張交絵。題字は最初の図(日本橋・品川・川崎)のみで、ほかは「東海」と漢数字の番号を記載。石摺絵が用いられる[96][97][92][98]
14 東海道 (異体隷書東海道) 林屋庄五郎 嘉永年間(1848-1854年)前期 横大判 10枚 題字が隷書体。11.より落ち着いた画風。小田原までの10図までが確認される[99][100][101][92]。内田実は「広重が嫌や嫌やながら筆を執つたと思はれるほど無味索寞」と評する[102]
15 東海道五十三図会(美人東海道) 藤岡屋慶次郎 嘉永年間(1848-1854年) 縦大判 46枚か 前景に美人全身図を、上部枠に宿駅風景を描く[92][103][104]
16 東海道五十三次(隷書版) 丸屋清次郎 嘉永年間(1848-54年) 横大判 55枚 題字が隷書体。荒い描写を濃彩と摺りで補う。『東海道名所図会』からの引用が見られる[65]
隷書版日本橋。メトロポリタン美術館蔵。
17 四ツ切巻物東海道 佐野屋喜兵衛 嘉永年間か 四ツ切判 不詳 横長枠が引かれ、巻頭部を折り返し、題字が大書きされ、絵巻状を呈する。題字に続いて、駅名と狂歌が記される。日本橋からかな川までの4図続き1枚しか確認されていない[81][73]
18 東海道(二つ切東海道) 蔦屋吉蔵 嘉永年間 横中判 54枚 題字は行書・草書・隷書と混在する。島田・金谷は1枚に纏められている[105][83]
19 五十三次張交(東海道張交図絵) 和泉屋市兵衛 嘉永5年(1852年) 縦大判 14枚 最初の1枚(日本橋・品川・川崎・神奈川)のみ東海道張交図会と題する張交絵。それ以降は上部に題字が横書きされる[106][107][108]
20 雙(双)筆五十三次 丸屋久四郎 安政元年-4年(1854年-1857年) 縦大判 55枚 広重が上半分に宿駅風景、三代歌川豊国が駅に関係した人物を前景に描く[92]
21 五十三次名所図会(竪絵) 蔦屋吉蔵 安政2年(1855年) 縦大判 55枚 後の六十余州名所図会(嘉永6年-安政3年)・名所江戸百景(安政3-5年)にも見られる、縦構図、濃彩、近接拡大法(近像型構図)の採用。俯瞰構図が多い[109][110][92][111]。石井研堂は派手な摺色を嫌い「拙悪のもの」と断ずる[66]
竪絵版日本橋。国立国会図書館蔵。
22 東海道五十三次図会 山口屋藤兵衛 安政3年(1856年) 縦大判 15枚 張交絵。1枚に4宿駅を含める[112][108]

注釈

  1. ^ ひとつのテーマで複数枚のシリーズ作品としたもの[1]
  2. ^ 歌川広重、富士見百図(安政6年・1859年)、序。「葛飾の卍翁、先に富嶽百景と題して一本を顕す。こは翁が例の筆才にて、草木鳥獣器材のたぐひ、或は人物都鄙の風俗、筆力を尽し、絵組のおもしろしきを専らとし、不二は其あしらひにいたるも多し。此図は、夫と異にして、余がまのあたりに眺望せしをうつし置きたる草稿を清書せしのみ(略)図取は全く写真の風景(以下略)。 」[23][24]
  3. ^ この記録の基となったのは、新聞『小日本』108号(1894年6月23日)での、「天保の初年、広重、或人(諸侯か或は旗下)に随行して、京師に赴き、行々山水を見て、深く感ずる所あり。これより専ら山水を画くの志を起せりとぞ(三世広重の話)(略)幕府八朔御馬進献の事あり、翁供奉して京師に上り云々(後略。編注:振り仮名は略した。) 」である[35]
  4. ^ 安藤家由緒書「安藤仲次郎…成長仕候付 文恭院様御代天保三年三月鉄蔵跡御抱入被仰付相勤」。鉄蔵が広重の実名で、仲次郎に家督を譲った。「文恭院」は徳川家斉[50]
  5. ^ 「且又居宅之儀当初塩町に御座候処横町にて御都合いかゞとぞんじ則湊橋手前西角へ売場相しつらひ手広に商ひ仕候間右両店何れへなり共御もよりよろしき方へ多少にかきらず御用向之仰付被下置候偏に奉希上候以上(略)天保七年丙申正月吉旦新彫/版元 霊岸島塩町保永堂竹内孫八梓/売場 同所南新堀みなとはし西角」[53]
  6. ^ 立命館大学アート・リサーチセンター日本芸能・演劇総合上演年表データベース 検索結果”. 2021年10月13日閲覧。
  7. ^ 門人の紫紅によると、広重は摺り色を淡くするよう、口酸っぱく言ったのに対し、版元は濃彩を要求したという[68]。内田実は、その点から、「時勢の圧迫・要求」を受けた広重を擁護する[69]

出典

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  7. ^ 長田 2018, pp. 40–41.
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  10. ^ 内藤 1992, p. 642-645.
  11. ^ 永田 2019, p. 321.
  12. ^ 鈴木ほか 2004, pp. 24–132.
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  26. ^ 浅野 1998, p. 48.
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  110. ^ 前田 2017, p. 346.
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