昌傳庵 歴史

昌傳庵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/03 05:32 UTC 版)

歴史

出羽国舘山城北緯37度54分43.5秒 東経140度3分48.8秒 / 北緯37.912083度 東経140.063556度 / 37.912083; 140.063556 (舘山城))を本拠としていた伊達尚宗が、亡くなった3男の久松丸の供養を目的として、現在の山形県立米沢東高等学校北緯37度54分45.1秒 東経140度6分19.2秒 / 北緯37.912528度 東経140.105333度 / 37.912528; 140.105333 (現在の山形県立米沢東高等学校。この辺りにあった新町(あらまち)に創建された。1506年から1591年までの所在地。))の辺りにあった新町(あらまち)に永正3年(1506年)に開基[1]し、總持寺前住で越前大芸寺5世だった喜山高悦を招いて開山した[2]伊達政宗の転封に伴って、陸奥国岩出山城北緯38度39分17.5秒 東経140度51分46.9秒 / 北緯38.654861度 東経140.863028度 / 38.654861; 140.863028 (岩出山城。この付近に米沢から移転した。1591年から1602年までの所在地。))の城下町へ、さらに仙台城の城下町へと移転し、現在地(北緯38度14分52.1秒 東経140度53分0.3秒 / 北緯38.247806度 東経140.883417度 / 38.247806; 140.883417 (1602年から現在までの所在地。))に伽藍が創設された。「米沢六町」の1つである新町も、伊達氏の移封に従って岩出山に移って新町と称し、仙台に移ると荒町と称した。寛永5年(1628年)頃、若林城造営により仙台城の城下町も拡張され、それに伴って荒町も現在地へと再度移転したため、昌傳庵は米沢でかつて所在した町の流れをくむ町に再び存立することになった。

江戸時代松音寺、泰心院、輪王寺とともに仙台藩曹洞宗4ヶ僧録司の一つとされる。また、仙台藩での寺格は着座格。

明治22年(1889年)に鹿落観音堂(仙台三十三観音第33番札所)を管理していた仏経山大蔵寺が昌傳庵に統合されたために、鹿落観音堂の管理寺院となる。

なお、室町時代初期に陸奥国の会津地方に創建された正傳庵が、米沢に移されて伊達氏により昌傳庵として再興されたとの説もあるが、詳細は不明[1]

年表


  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 曹洞宗 奕葉山昌傳庵 (PDF) (公式リーフレット
  2. ^ a b c 曹洞宗 奕葉山昌伝庵(山形県米沢市で再興された方の昌伝庵の公式サイト)


「昌傳庵」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「昌傳庵」の関連用語

昌傳庵のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



昌傳庵のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの昌傳庵 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS