徳川家継 徳川家継の概要

徳川家継

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/28 02:52 UTC 版)

 
徳川 家継
徳川家継像(長谷寺蔵)
時代 江戸時代中期
生誕 宝永6年7月3日1709年8月8日
死没 正徳6年4月30日1716年6月19日)(6歳没)
改名 世良田鍋松、徳川家継
戒名 有章院殿贈正一位大相国公、有章院殿照蓮社東譽徳崇大居士[要出典]
墓所 東京都港区の三縁山広度院増上寺
官位 従二位権大納言正二位内大臣右近衛大将
正一位太政大臣
幕府 江戸幕府 7代征夷大将軍(在任:正徳3年(1713年4月2日 - 正徳6年(1716年)4月30日)
氏族 徳川将軍家
父母 父:徳川家宣、母:お喜代の方(月光院
兄弟 豊姫、男子、政姫近衛家煕の娘)、家千代大五郎家継虎吉
正室:なし(婚約者:八十宮
なし
特記
事項
徳川吉宗が跡を継いだ
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徳川家継像(徳川記念財団蔵)
東京都港区芝公園の増上寺にある家継の宝塔(2019年11月4日撮影)

江戸幕府の歴代将軍の中で最年少で任官し[注釈 1] 、また史上最年少で死去した征夷大将軍である。


注釈

  1. ^ 過去にさかのぼれば鎌倉時代の惟康王(後の惟康親王)が数え3歳で征夷大将軍に任ぜられており、家継はそれに次ぐものである。
  2. ^ 家継の幼名・鍋松から、間部(間鍋)詮房が父という説があるが、俗説で信憑性は低い。
  3. ^ 家継の死により、徳川将軍家における第2代将軍・秀忠以来の血統は断絶となった。ただし、秀忠の血統は家継が死んだ時点では会津松平家越智松平家でそれぞれ続いており、あくまで徳川将軍家の中で断絶となったのに注意を要する。
  4. ^ この時点では第3代将軍・徳川家光の男系子孫は残っており、家継の叔父にあたる松平清武とその子(家継から見れば従兄)清方享保9年(1724年)に死去して断絶した。女系子孫では家光の唯一の娘千代姫の血筋が現在まで存続している。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 続群書類従完成会 1970, p. 56.
  2. ^ 続群書類従完成会 1970, p. 54.
  3. ^ 一条兼香「兼香公記」正徳2年12月14日条
  4. ^ 山口、2017年、P211-213
  5. ^ 山口、2017年、P211・213-214
  6. ^ 篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』(新潮新書2005年5月ISBN 978-4106101199
  7. ^ 鹿児島県史料刊行委員会 編「御家譜」『鹿児島県史料集』 Ⅵ、鹿児島県立図書館、1966年3月31日、83頁。NDLJP:9769552 (要登録)


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