平貞盛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/11 02:14 UTC 版)
系譜
『新編常陸国誌』には以上に加えて、次男に常陸介・平維風がおり、平貞叙、平永盛、平千公(干公?[8])、平正度、平正済を養子にしたと記されている[9]。
長男の維叙は藤原済時の子で養子と伝えられており[10]、当初の嫡流は次男維将の系統だった。次男維将の子の維時も祖父貞盛の養子となっている。維将の孫である平直方の子孫は北条氏・熊谷氏と称している。また直方の娘が源頼義と結婚して源義家や源義光らを産み、河内源氏には女系を通じて維将の血筋が受け継がれている。
四男維衡は伊勢氏、また後に平清盛を生み出すことになる伊勢平氏の祖である。弟繁盛の息子たちも伯父貞盛の養子となっており、戸隠の鬼女紅葉退治の伝承で名高い余五将軍平維茂は繁盛の系統である。伊勢氏の系統からは、戦国時代に北条早雲を祖として後北条氏を輩出している。
今昔物語集
『将門記』では将門と親睦をはかろうとする態度を見せたり、たびたび将門に敗れて追われるさまが描かれている。 一方、『今昔物語集』にはそんな貞盛を武勇に優れた豪胆な人物としての一面と、自分の都合で他人を踏み躙る一面を持つ、両面性のある人物として描いている。 巻第二十九・本朝付悪行では、第五話「平貞盛朝臣、法師ノ家ニ於テ盗人ヲ射取リシ語」にて、陸奥から帰京の途中に知人の法師の家に宿った際、盗人相手に武勇を振るった豪胆な人物像が描かれてているが、第二十五話「丹波守平貞盛、児ノ肝ヲ取リシ語」では、矢傷の治療の為に胎児の肝が必要と言われ、息子に命じて自分の孫の肝を食べようとした挙句、何人かの妊婦の腹を裂き胎児の肝を得て自分の矢傷の治療をし、その秘密を守るため治療法を伝授した医師の殺害を企てた、という逸話とが述べられている。
画像集
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小日向神社全景(最寄り有楽町線江戸川橋駅、向って左掲示板、奥社殿)
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小日向神社境内掲示板(由緒平貞盛、天慶3年(940)建立の氷川神社を合祀)
注釈
出典
- ^ 須藤春峰『東北中世史 : 岩城氏とその一族の研究』白銀書房、1975年。CRID 1130282271207165824 。
- ^ a b 野口実 2022, p. 44.
- ^ a b 野口実 2022, p. 46.
- ^ a b c 『系図纂要』
- ^ 鈴木哲雄『平将門と東国武士団』吉川弘文館〈動乱の東国史〉、2012年。ISBN 9784642064408。 NCID BB09998152 。
- ^ 佐々木紀一「出羽清原氏と海道平氏(下)」『米沢国語国文』第47巻、山形県立米沢女子短期大学国語国文学会、2018年12月、4-33頁、ISSN 0287-6833、CRID 1050845764197863552。
- ^ a b 野口実『中世東国武士団の研究』(増補改訂)戎光祥出版〈戎光祥研究叢書〉、2021年。ISBN 9784864033701。全国書誌番号:23474986 。
- ^ a b 藤原 1904, 平氏22頁.
- ^ a b 中山信名, 栗田寛『新編常陸國誌』加納與右衞門、1899年。doi:10.11501/763974。CRID 1130000795177383296 。
- ^ a b c 『尊卑分脈』
- ^ a b c 高橋修『常陸平氏』(戎光祥出版、2015年)
平貞盛と同じ種類の言葉
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