平貞盛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/11 02:14 UTC 版)
生涯
承平5年(935年)、京で左馬允在任中、従兄弟の将門と母方の叔父(源護)たちとの抗争が勃発し、父の国香がそれに巻き込まれて亡くなる事件が起こる。それらを伝え聞いた貞盛は、朝廷に休暇を申請して急遽帰国し、焼失した自宅から父国香の屍を探し出し、また山中に避難した母と妻らを探し出した。この際貞盛は、そもそも叔父たちが従兄弟の将門を待ち伏せ攻撃したことが発端であって将門側に非はなく、また自らの京での官人としての昇進を望んだこともあって「互いに親睦をはかるのが最も良策である」という態度をみせている。父の死後まもなく、その後継の常陸大掾に任官された。
しかし、将門らの抗争に叔父の良兼、良正らが介入しだすと、実際結果的に将門が国香を死に至らしめたのもあり、良兼に説得されて、良兼や良正らが将門を攻める際にはこれに加わって将門と対立することとなった。だが抗争は次第に将門有利に進展していき、良兼らの勢力は徐々に衰退していく。承平8年(938年)貞盛は愁訴のため密かに上洛を企てるも、これを察知した将門に2月29日信濃国小県郡の信濃国分寺付近で追いつかれ、旧知の滋野恒成(善淵)、小県郡司の他田真樹(他田氏)らと共闘するも敗れるが、何とか脱出して京の都に辿り着いた。そして将門追捕の官符を持って帰国したものの将門に一蹴され、天慶2年(939年)6月上旬には叔父良兼が病没し、一族の後ろ盾を失ってしまう。同年10月、陸奥守平維扶が赴任途中に下野国に入ると、これに従って陸奥に入らんとしたが、再び将門の追撃を受けた為に逃亡し、維扶は貞盛らを見捨ててしまった。11月には常陸国での紛争を利用して将門を討たんとするが失敗、従兄弟(叔母の子)の藤原為憲と共に再び身を隠した。
天慶2年12月には将門が「新皇」を自称する。天慶3年(940年)、常陸国北部にて5000の兵を率いて貞盛、為憲らの捜索が行なわれるも当人らは発見出来ず、代わりに貞盛と源扶の妻が捕らえられたのみで、将門は彼女らを放免して捜索を中断し、兵を各地に帰した。これを知った貞盛らは、母方の叔父の藤原秀郷の協力を得て4000余の兵を集めると将門を攻め、迎撃に来た将門勢を破り次第に追い詰め、2月14日「北山の決戦」にてついにこれを討ち取った[注釈 5]。将門討伐後の論功行賞では、将門ら謀反人を討つことができたのも、多年の苦難を経て努力した貞盛の為すところも大きいとして、従五位上(正五位上とも)に叙せられた。
後に鎮守府将軍となり丹波守や陸奥守を歴任、従四位下に叙せられ「平将軍」と称した[10]。
平将門の乱の原因として、将門の父・平良将が鎮守府将軍であった時代に築いた奥州への利権を巡ってのものであったとする説がある[11]。良将・将門の奥州に対する勢力基盤は、将門の乱後に貞盛に継承された[11]。そのために鎮守府将軍に任命された。貞盛の狄坂丸に対する軍事活動を境に、奥羽の戦乱記事は消え、東北地方に関する情報が飛躍的に増加することとなった。貞盛と婚姻関係で繋がっていた藤原氏の小一条流も、4代にわたって陸奥守を独占することとなった[11]。
注釈
出典
- ^ 須藤春峰『東北中世史 : 岩城氏とその一族の研究』白銀書房、1975年。CRID 1130282271207165824 。
- ^ a b 野口実 2022, p. 44.
- ^ a b 野口実 2022, p. 46.
- ^ a b c 『系図纂要』
- ^ 鈴木哲雄『平将門と東国武士団』吉川弘文館〈動乱の東国史〉、2012年。ISBN 9784642064408。 NCID BB09998152 。
- ^ 佐々木紀一「出羽清原氏と海道平氏(下)」『米沢国語国文』第47巻、山形県立米沢女子短期大学国語国文学会、2018年12月、4-33頁、ISSN 0287-6833、CRID 1050845764197863552。
- ^ a b 野口実『中世東国武士団の研究』(増補改訂)戎光祥出版〈戎光祥研究叢書〉、2021年。ISBN 9784864033701。全国書誌番号:23474986 。
- ^ a b 藤原 1904, 平氏22頁.
- ^ a b 中山信名, 栗田寛『新編常陸國誌』加納與右衞門、1899年。doi:10.11501/763974。CRID 1130000795177383296 。
- ^ a b c 『尊卑分脈』
- ^ a b c 高橋修『常陸平氏』(戎光祥出版、2015年)
平貞盛と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 平貞盛のページへのリンク