布袋劇 各地での発展

布袋劇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/21 09:21 UTC 版)

各地での発展

文献では梁炳麟が布袋劇を始めたとあるが、歴史事実として確実たる事実とは認定されていない。しかし布袋劇と泉州の傀儡劇文化には相関関係が認められることは定説になっている。福建地区の布袋劇の発展には泉州布袋劇の影響が広く認められ、そのため泉州が布袋劇発祥の地とされる。しかし長い伝承過程の中で泉州布袋劇は人形伝統芸術の一支流となり、この地区の人形工芸も傀儡を中心としたものとなっている。それに対して漳州或いは台湾での布袋劇は泉州を凌駕する発展を見て、1950年代以降、台湾では伝統布袋劇の改良に盛行し、漳泉両地に先んじた芸能として発展している。

泉州

文献によれば1730年から1760年にかけて泉州地区では布袋劇が相当流行したとの記録がある。当時の泉州布袋劇は人形や舞台装置、音楽などは傀儡劇戯曲の強い影響を受け、演出面では謝神、迎送神、祝宴、破土などを行っている。1798年になると記録に残る中国で最初の専門的な布袋劇団として「金永成偶劇団」が誕生し、既存の傀儡調を発展させ文戯を編み出し、精密な人形と泉州による演出を加えた「南派布袋劇」が誕生している。

布袋戲人形頭部の彫刻技術、泉州を起源とする

19世紀になると泉州南派布袋劇は全盛期を迎える。この時期は中国各地に布袋劇が広まり、傀儡劇を起源とする内容以外、人形の操作技術を重視した梨園布袋劇が誕生したのも人気を得た要因の一つである。20世紀初、梨園布袋劇より更に歌唱を重視した籠底劇が泉州で誕生する。しかし台本での創意性に欠如していたため民間で広まるには至らなかった。しかし後に小説を題材にした内容となり、音楽も南管を採用するなど改良が進み独特の文戯を編み出したが、台湾布袋劇や漳州布袋劇に比べて時代に取り残され布袋劇を代表する地位を失うに至った。

20世紀になると一時中国政府による民間芸能の保護と育成が行われた。その結果1953年に専門集団として「晋江掌中木偶劇団」が誕生した。この劇団は南管と梨園を融合させ、『白龍公主』や『五裏長』、『虹』などは中国のみならず世界各地で上演された。しかし文化大革命で致命的な打撃を受けている。1980年代以降この状況は改善されつつある。また布袋劇そのもの以外にもこの地区の人形彫刻工芸も有名であり、特に江加走んよるものは現在でも高く評価されている。

漳州

漳州布袋劇は泉州のものと類似しており、その起源を同じくしている。しかし後場音楽に関しては泉州と異なり、鑼鼓、嗩吶等の北管音楽を使用しているのがその特徴である。その楽器の特性から文戯より武戯が発展した。このほか漳州の雲霄、詔安、東山、平和諸県では近隣の潮州楽曲の影響を受けており、その地方の布袋劇を特に「潮州布袋劇」と称している。

20世紀初頭、漳州地方士紳藍汝漢は上海より京劇団を招きこの地に広めた。同時期に漳州芸人の楊勝将が京劇唱腔と演出を布袋劇に取り込み新しい様式を確立した。1900年から1930年にかけれ漳州北派布袋劇と台湾と泉州で流行した南派布袋劇、或いは泉州梨園布袋劇がそれぞれ競い合い融合していった。そしてこの北派布袋劇は後に台湾に入り、李天禄の外江布袋劇へと発展していく。

漳州布袋劇は動物と武打劇が特徴である

1932年、台湾で発達した歌仔劇が漳州に伝わるとその影響を受け、元来京劇の影響を強く受けていた漳州歌仔劇に台湾歌仔劇の音楽と華麗な衣装が融合され薌劇と称された。漳州布袋劇はこの薌劇の模倣を行い、一部の劇団は歌仔調の歌を取り入れた布袋劇を編み出した。その後様々な改良が加えられ1950年代には激しくユーモア溢れる武打を特徴とする漳州布袋劇の風格が確立され、『方針演義』や『西遊記』を題材とした内容が盛んとなった。

中国共産党が政権を取ると、国家による布袋劇の保護が行われるようになる。そして1959年3月、漳州龍渓に「龍渓専区木偶劇団」が結成され、民間芸能の布袋劇が専門家による芸術として扱われるようになった。また1960年にルーマニアで開催された「第2回国際操り人形祭」で漳州布袋劇による『大名府』、『雷万春打虎』が上演され金賞を受賞している。しかし文化大革命が始まると伝統芸能は否定され、10年にわたる停滞期を迎えることとなった。

文革が終結し、改革開放が開始された1980年代、中国政府は再び布袋劇の保護に乗り出し漳州木偶芸術学校を創設している。「漳州木偶劇団」は再び活動を開始しし、中国国家一級演員荘陳華と新世代の洪恵君、呉光亮等の努力により児童劇『森林的故事』などが上演されるようになった。

台湾

台湾では泉州から伝播した布袋劇が伝統的な社会と台湾語により独自の発達を遂げて現在に至るまで大きな人気を博している。

戦前

1750年代、福建より大量の移民が台湾に入植すると、布袋劇も移民とともに台湾に流入した。当時の台本は古書、小説を題材としており、それにより上演される布袋劇は古冊劇と称されていた。特徴としては口白が文語体であること、動作の細緻性、南北管を主とする音楽にある。『台湾省通誌巻』学芸芸術篇によれば、最初に台湾にもたらされたのは南派布袋劇であった。現在は台湾で傍流となった南派であるが、現在での台北の小西園、亦宛然等わずかに現在にも伝わっている。

1920年代は武侠劇を中心に布袋劇が民間に広まった期間である。清末民初の『七侠五義』、『小五義』などの武侠小説を題材とし、各種剣を重視した表現を用いた為に剣侠布袋劇と称された。当時の剣侠劇を代表する人物としては「五州園」の黄海岱と「新興閣」の鍾任祥がいる。

1930年代は台湾で皇民化運動が推進され、布袋劇もその中で変化を遂げる。まず中国伝統の鑼鼓の使用が禁止され、変わって西洋音楽が用いられた。また雑用の中でも日本風の衣装をまとった人形が使用され、『水戸黄門』など日本の物語を題材としたものが日本語で上演されることもあった。軽快な口白が重要な布袋劇では日本語は受け入れられなかったが、その当時の演出方法は金光布袋劇へ大きな影響を与えることになる。

金光布袋劇

戦後の1950年代、台湾中南部の野台劇として金光劇が登場した。武侠劇時期の的武内容を継承し、更に新しい種卓を創造した他、金光劇では豪華な背景や衣装を使用し、また灯光を利用した特殊効果を多用し武打の情景を表現した。

また音楽の方面では、少なからずの劇団が伝統的な後台での音楽に代わってレコードを使用するようになった。この時期の主要な人物としては五州園第2代の黄俊雄と新興閣第5代の鍾任壁が挙げられる。黄俊雄の布袋劇は人形の大型化を実現し、またテレビによる放送を開始するなど精力的に活動した。

テレビ布袋劇

1960年代初期、映画館で布袋劇が上演されることは一般的であり、野台金光布袋劇は農村地区の重要な娯楽の地位を占めていた。そしてテレビ時代が到来した1962年、当時台湾で唯一テレビ放送を行っていた台湾電視公司李天禄も亦宛然掌中劇団による『三国志』を放送した。1965年4月には明虚実掌中戯班による北京語音声による『水仙宮主』を放映、テレビ向け布袋劇が初めて登場する事になる。このように李天禄により開始されたテレビ布袋劇は、金光劇の黄俊雄により発展することになる。

1960年代初頭、黄海岱は布袋芸能を子である黄俊卿と黄俊雄へと継承していった。黄俊雄は人形や音楽、舞台効果の改良に力を入れ、新しい内台戯を創造した。1970年3月12日、黄俊雄が率いる真五洲劇団は内台劇で上演していた雲洲大儒侠首を初めてテレビ放映した。斬新な音楽と舞台効果によりたちまち人気番組となり、放映は583回にも及び、台湾で97%という最高視聴率を記録し、テレビ放映が学生や社会人の無断欠席欠勤を及ぼし、1974年6月16日には正常な社会生活を妨害するものとして、政府によりテレビでの布袋劇放映禁止となる社会現象を巻き起こした。

映画産業と専門チャンネル

1980年代後半、台湾では政府の外国メディア規制の大幅な規制緩和により外国の娯楽文化が流入し、台湾の布袋劇もその影響を受けるようになった。観客の減少により後場の専門集団の上演機会が失われ、経営が赤字に転落したことで最盛期には千を超える劇団により上演されていた野外布袋劇団も300余りに減少し、その中には実質的に上演を行っていない劇団も少なからず含まれるようになった。こうした状況下でも一部は学校や地域に密着した活動を行い、伝統布袋劇の文化の保存に努力し、その中でも李天禄と鍾任壁等の伝統布袋劇芸師による貢献が大きかった。新興閣の鍾任は大学の中に布袋劇技芸を開設している。

台湾の伝統布袋劇の劇団と観衆は大幅に減少したが、テレビ布袋劇は1980年代に大きな進歩を遂げている。1988年、テレビ放送の発展を受け黄文択と黄強華の兄弟は美地塢録影帶公司を通しレンタルビデオ市場へ参加し、霹靂系列布袋劇を中心に作品を発表した。この劇団はレンタルビデオを通じて百万人の観客市場を創出し、全台湾のレンタルビデオの10%を占めるに至った。

1993年、霹靂シリーズはまた布袋劇の放送を通信とする専門チャンネル「霹靂衛星電視台(現在の霹靂台灣台)」に発展した。運営方式としてはレンタル用の布袋劇を一定期間経過後にテレビ放映したものである。このようにしてさまざまなメディアに進出した布袋劇であるが、1997年には映画化され『聖石伝説』が製作され、台湾のみならず日本やアメリカにも輸出された。

伝統的な布袋劇は凋落したが、製作レベルを向上させたビデオやテレビ化を通じて新たな観客を獲得し、2005年現在、台湾のテレビ布袋劇市場は4000万USD以上の市場へと成長し、100万人以上の視聴者を獲得、ケーブルテレビの専門チャンネルは350万戸以上へと成長した。また布袋劇関連商品の販売も増加し、同人誌コスプレなどの愛好者によるサブカルチャーも形成されている。


  1. ^ 日本人。「チャン チンホイ」は芸名。台湾布袋戯の陳錫煌・呉栄昌に師事。出典「台湾の布袋戯(人形劇)に魅せられて 文化交流で広げたい友好の心(『日中友好新聞』2012年02月15日号)
  2. ^ 台北偶戯館台湾文化部
  3. ^ 林柳新紀念偶戯博物館公式サイト
  4. ^ 林柳新紀念偶戯博物旅々台北、2011年8月19日
  5. ^ 雲林布袋戲館公式サイト





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