小椋佳
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逸話
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快挙
『夢追い人』と『彷徨』の2枚は、オリコンTOP3に連続11週チャートイン[要出典]という、未だ破られていない最高記録を持つ。
当時の小椋佳がどれほどヒットしていたのかについては、以下のような証言がある。
「 | 当時のキティはもの凄く儲かっていた。小椋佳のライヴの2枚組(『遠ざかる風景』)なんか100万枚売れてたしさ。 | 」 |
—宗像和男(キティレコード・プロデューサー) |
「 | 小椋佳と井上陽水の大ヒットで多賀英典はドイツのポリドール社からスタジオをプレゼントされた。それが「キティ伊豆スタジオ」だった。 | 」 |
—大野進 |
「 | ポリドールの第一スタジオで小椋さんの音取り。第二スタジオで陽水の音取りなんてこともよくあった。いい時代だった。 | 」 |
—安田裕美 |
人物評
「 | 小椋佳はよく素人の余興と言われるがとんでもない。彼が米国に研修に行っていた時、ロスで『夢追い人』のレコーディングをやったんだけど、一緒に麻雀を徹夜でやる。朝になると僕等は寝てても彼はちゃんと銀行の仕事に出かけてこなす。そういった強烈なパワーの持ち主だった。 | 」 |
—多賀英典 |
影響
「 | (学生時代に)『青春 〜砂漠の少年〜』は擦りきれるほど何回も聞いた。友人に何度も何度もいいだろ?いいだろ?って言ったんです。そんなわけで『俺たちの旅』は小椋さんにお願いしました。 | 」 |
—中村雅俊 |
曲作り
「シクラメンのかほり」の発表からほどなくして、年間約50曲ペース(多い年で100曲)で楽曲を制作するようになった[2]。
小椋はよく「ギター弾けないんですよ」と語っているが、これは「アコースティック・ギターが弾けない」という意味である。
「 | 僕はギターが弾けないんです。ですから僕のバックに流れてるすばらしいギターの音が聞こえるのは、ここにいる安田裕美さんが弾いているんです。いわば「本当の小椋佳」です。 | 」 |
—小椋佳(1981年普門館のコンサートにて) |
「 | 昔から我が家にあったボロいクラシック・ギターで、コードを3つぐらいしか知らないのに、曲を創っては、夜、私をたたき起こして「一曲創ったんだ。聞いてくれる?」とやるんです。 | 」 |
—神田富雄(実弟) |
1976年のNHKコンサートでは「アンコールがあったら一人でやれ」と多賀に言われ、安田からマーティンのアコースティックギターを借りて練習させられ、『木戸をあけて』の弾き語りをした。
以上のようにシンガーソングライターであるものの、本人曰く「楽譜を書き起こせないし、楽器演奏も苦手」という異色の音楽家である[2]。小椋は譜面が書けないので、ギターのコードを弾きながら書いた詩を口ずさんで曲にしていくという手法を用いてカセットに録音していた[2]。その歌を他の人に依頼して楽譜に書き起こしてもらった後、アレンジャーに編曲してもらうという方法で楽曲制作を行っている[2]。
「 | よく小椋さんの家に行って曲作りと譜面起こしを手伝いました。 | 」 |
—安田裕美 |
病気
銀行員時代は接待などで飲み歩いたこともあり、当時は体重80kgに血糖値が400もあり何年もの間糖尿状態だった[2]。
2001年に人間ドックで胃癌と診断され、8時間に及ぶ手術で胃の3/4を切除。手術後食事に気をつけるようになったことから、2023年1月現在の体重は50kg台となり、持病だった糖尿病が改善されたとのこと[注 11]。
2012年には劇症肝炎で生死を彷徨った。もっとも病の後も1日2箱の煙草を欠かさず、また米留学以来常にコーラを愛飲し、1.5リットルのボトルが1日半でなくなるという[19]。
芸名の由来・家族
芸名の「小椋」は、大学3年生の時に法律の勉強で福島県耶麻郡北塩原村の学生村に約2ヶ月間滞在中、周りの住民の姓のほとんどが「小椋」姓であったことにより命名したもので[20][21]、その縁もあり、2010年から"裏磐梯観光協会大使"を務めている。同地の地酒「佳き酔 歌磐梯」は小椋が命名したものである[22][23]。「佳」は、後の妻となる恋人、塚原佳穂里の名の第一字から取ったもの[4]。
長男・神田知秀は小椋のマネジメント会社である株式会社ゴッド・フィールド・エンタープライズの代表取締役である。次男・神田宏司は、国内でも数少ない琵琶の製作者である。俳優の神田利則は甥に当たる。義兄の塚原将は小椋が作曲した楽曲「時」の作詞家である。
日常の家事について、子供の頃は母親、結婚後は妻にそれぞれ依存してきたという。そのため2000年代前半に「一度は一人で生活してみよう」と思い立ち、妻との「週末婚」を始めた[2]。妻は当初戸惑ったが、ほどなくして週末婚は私生活でも仕事面でもいい効果をもたらした[注 12]。2022年のクリスマスに約20年間続いた週末婚を解消し、再び妻との同居生活に戻った[2]。
その他
- 日本中央競馬会の馬主である(本名名義)。
- 小椋の事務所は一時期アニメ「うる星やつら」・「めぞん一刻」などの公式ファンクラブ「キティアニメーションサークル」(略称KAC)の事務局を兼ねていたことがある。当時の事務所社長は小椋の実弟であった。
- 一時期、東京キッドブラザースへの提供作品を中心に『葉月多夢』というペンネームを用いていたことがある。由来は長男のアメリカでの愛称からきている。次男に自分と同じ読みの名前を付けたことから、長男への配慮として長男の愛称をもうひとつのペンネームとしたという。
注釈
- ^ 佳穂里は青山学院大学を中退して文学座に入団し、杉村春子と旅公演に出たり、映画にも出演して人気が出ていたが、役者に向かないと文学座を退団し、妻となった。
- ^ 本人によると「終演時の幕が下りると同時に、僕の中でとんでもない寂しさが押し寄せた。音楽活動をしていた僕は、“社会人になったら舞台を客席から見る側の人間になっちゃう”という焦りが湧き出した」と述懐している[2]。
- ^ 大学、勧銀の同期には後に第一勧銀最後の頭取となる杉田力之がいた。また、東大法学部の同期には公明党元代表の神崎武法や東京海上日動火災保険相談役の石原邦夫らがいた。
- ^ 営業店としては富士銀行側に統合、建物跡地としてはダイワロイネットホテルが立地する
- ^ まだ無名のころ、ライブハウスで初めてステージに立った際、一緒に出演したのが井上であった。
- ^ 本人は後年、「人事部長がおおらかな人で、歌手活動について伝えたんだけどその人は特にいいともダメとも言わず、なんとなく“オッケー”になっちゃったんです」と述懐している
- ^ 1月15日テレビ朝日系で録画放送。
- ^ 「やらまいか」とは遠州弁で「やってみよう」の意味。
- ^ 本人は後に、「サラリーマン人生として残るは、出世のためにあくせくするだけなんです。そういうことにエネルギーを使うのは、僕の人生ではないと思った」と回想している。
- ^ 本人によると、1990年前後のバブル期に地方自治体はコンサート会場などの箱物を盛んに造ったが、自治体主催の催し物は赤字になることも多かった。1993年頃、自治体などの間で「小椋佳のミニコンサートをやると会場に客が入って収支がプラスで終わる」とことが判明し、コンサートの依頼が増えたという。
- ^ 本人は後年、「母親を59歳で糖尿病で亡くしていたから、僕も“50代後半で死ぬかも”と覚悟していた。でも今はそれが改善されたから、変な話がんのおかげで長生きしてるようなものなんですよ」と語っている[2]。
- ^ 本人によると、絶妙な夫婦の距離感が保てるようになり、以前より関係が良好になったことから気持ちが安定し、充実した音楽活動を続けることができたという[2]。
- ^ モーニング娘。'18、およびアンジュルム、Juice=Juice、カントリー・ガールズ、こぶしファクトリー、つばきファクトリー、CHICA#TETSU(一岡伶奈率いる新規グループ)、雨ノ森 川海(高瀬くるみと清野桃々姫等が率いる新規グループ)
- ^ 静岡県を除く東海地方・北陸地方・近畿地方・山口県を除く中四国地方。
- ^ 本来掲載するべき1月2日の土曜日が新聞休刊日により新聞がなかったため、元日付けに併載の2日のテレビ面に初回を掲載。
- ^ 前半のラストに歌唱
出典
- ^ a b c d e f g h もういいかい 2021, pp. 20–28.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 女性自身2023年2月14日号・シリーズ人間「もう燃え尽きた…でも、余生も愛燦燦」p58-64
- ^ 松井清人『オカン、おふくろ、お母さん』(文藝春秋、2006年、60 - 61頁)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t もういいかい 2021, pp. 34–65.
- ^ <(私の履歴書)小椋佳 「日経新聞」2016年1月1日〜31日掲載>[リンク切れ]
- ^ 小椋佳 プロフィール
- ^ a b c d e f g h もういいかい 2021, pp. 68–117.
- ^ a b c d もういいかい 2021, pp. 120–158.
- ^ *NHK特集 小椋佳の世界 NHK名作選(動画・静止画)-NHKアーカイブス
- ^ 林進、小川博司、吉井篤子『消費社会の広告と音楽』有斐閣、1984年、40-41頁。ISBN 9784641024052。
- ^ 胃がんの手術後、食の楽しみが失われてしまいました 胃がん、劇症肝炎と2度の大病を患ったシンガーソングライター・小椋 佳さん(71歳)がんサポート、2024年4月14日閲覧
- ^ 胃がんがくれた"余生"を歌う消化器のひろば No.8、2016年春号、2024年4月14日閲覧
- ^ 『現代』36(7)、2002年、pp. 234-235
- ^ 小椋佳『もういいかい まあだだよ』双葉社、2021年
- ^ “デビュー50年、芸能界引退へ 歌手・小椋佳さん 喜寿の「鬼」、世のウソ探す人生”. 毎日新聞. 2021年7月27日閲覧。
- ^ “鑑賞眼 「シクラメンのかほり」小椋佳が最後のコンサート 「十分、生きた」”. 産経新聞. (2023年1月27日) 2023年12月9日閲覧。
- ^ 2023年1月の特集 | NHK番組発掘プロジェクト通信
- ^ いよいよ放送!『マルコ・ポーロの冒険』 | NHK番組発掘プロジェクト通信
- ^ 『女性自身』2015年6月23日号。
- ^ 福島県ホームページ - 組織別 - 平成18年12月1日
- ^ [1][リンク切れ]
- ^ “あゆみ”. 北塩原村. 2022年12月2日閲覧。
- ^ “歌磐梯新酒完成!”. 北塩原村「広報きたしおばら」2017・3 No.407. 2022年12月2日閲覧。
- ^ “「もういいかい」小椋佳“最後”の伝言 若手へ託した「まあだだよ」50周年の節目にアルバム同時発売”. 朝日新聞デジタル (2021年1月21日). 2021年12月4日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 小椋がセルフカバーした作品。
- ^ 中古レコード店Record Shop NAKA 2号店のツイート
- ^ あびこ市民の歌 - 我孫子市ホームページ
- ^ ハロプロ・オールスターズによる20周年記念シングルに前山田健一の提供曲(音楽ナタリー) - ナターシャ 2015年 8月 5日。
- ^ “林部智史と小椋佳のサプライズ“美声”デュエットに万雷の拍手”. 東京中日スポーツ (2021年7月21日). 2021年12月4日閲覧。
- ^ “ラジオ「Changeの瞬間~がんサバイバーストーリー」好評放送中 【随時更新】”. 日本対がん協会. 2023年5月8日閲覧。
固有名詞の分類
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