小早川秀秋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/17 02:46 UTC 版)
系譜
- 父:木下家定(1543年 - 1608年)
- 母:雲照院(? - 1628年) - あこ、おあこ、杉原家次の娘
- 養父:豊臣秀吉(1537年 - 1598年)→小早川隆景(1533年 - 1597年)
- 正室:古満姫(? - 1651年) - 長寿院、毛利輝元養女、宍戸元秀次女
主な家臣
- 山口宗永 - 丹波以来の筆頭家老。越前減封時に加賀大聖寺の独立大名に取り立てられた。関ヶ原の戦いで討死。
- 松野重元 - 丹波以来の家臣。関ヶ原の戦いにおいて小早川勢より離脱。
- 稲葉正成(通政) - 旧名「林正成」。岡山転封後に逐電。後妻は春日局であり、後に大名となった。
- 平岡頼勝 - 秀秋の死後浪人となり、家康に召しだされて大名となる。
- 長崎元家
- 西部和泉守
- 杉原重政 - 岡山転封後に上意討ちに遭う。
- 伊藤重家 - 雅楽頭。関ヶ原では筑前に在国。
- 国府忠重 - 弥右衛門。関ヶ原では筑前に在国。岡山転封後は国府内蔵丞と名乗り、秀秋改易後は池田輝政に仕えた。
- 堀田正吉
- 志賀親次 - 関ヶ原後、福島家を経て肥後細川家に仕官。
- 溝江長氏 - 朝倉家家臣。主家滅亡後は織田信長に下り秀吉に属し、越前に領地を有す。秀秋の越前転封後に秀秋の配下となる。子に溝江長晴がいる。
- 波部又右衛門 - 丹波の土豪から家臣となり、筑前入部に従う。
- 木下延貞 - 秀秋の実兄で客分。慶長7年(1602年)10月の同年同月に弟の秀秋同様、謎の死を遂げた(慶長7年10月に病没した実兄木下俊定と思われる)。
- 滝川辰政 - 滝川一益の子。岡山転封後、姫路藩池田家に仕官。
脚注
参考文献
- 太田亮「国立国会図書館デジタルコレクション 小早川 コバヤカハ」『姓氏家系大辞典』 第2、上田萬年、三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、2355-2357頁。全国書誌番号:47004572 。
- 斎木一馬・岩沢愿彦 校訂「断家譜 廿一」『断家譜』 第二、続群書類従完成会、1968年10月30日。NDLJP:3451118。(要登録)
- 本多博之「小早川秀秋の筑前支配と石高制」『九州史学』第117号、九州史学研究会、1997年9月20日、NDLJP:4413116。(要登録)
関連史料
- 『小早川家文書』
- 『木下家譜』
- 『寛政重修諸家譜』
- 『岡山市史』
- “『史籍集覧 第二十六冊』”. 国立国会図書館. 2020年12月20日閲覧。(p.425-530に『醫學天正記』収録)
注釈
- ^ 「金吾」は官職の左衛門督の唐名「執金吾」が由来。
- ^ 「黒田家文書」所収の慶長三年正月朔日付早川長政竹中隆重連署陣触写は蔚山城の戦いの陣立書であるが、そこに秀秋の名前はない。
- ^ 8,000とする資料もある[12]。
- ^ 『中臣祐範記』では「上方衆が(それまで)勝利を得ていたのに、小早川秀秋が裏切って後ろから1万5000余にて切りかかったため、どうにもならず(上方衆が)敗北した。……秀秋が「太閤秀吉」の御養子として出頭之仁であるにもかかわらず、今回のことの次第(裏切り)は武勇のうえとは言え、比興之所行であると世間之嘲嘍を受けた」としている。このように、秀秋が秀吉の恩を忘れて裏切り、豊臣公儀方の軍勢を敗北に追いやったことが卑怯であると世間から嘲笑されたと辛辣な書き方されていることから、同時代人にも秀秋の裏切りが卑怯と受け取られていたことがわかる[19]。
- ^ 曲直瀬玄朔著『醫學天正記』(医学天正記)には18-19歳(数え歳)の秀秋(原文は「備前中納言秀秋公、年十八 九歳」)診察時の情報が載っており、乾上に「内傷附飲食 十三」には「酒渇嘔吐、胸中煩悶全不食、尿赤舌黒乾、脉細數(以下、薬の処方の説明なので略)」、乾下に「黄疸 三十六」には「酒疸一身黄、心下堅滿、而痛不飲食渇甚(薬説明、中略)○黄色少減、心中悸動心遠、脉遅用(薬説明、略)」とある。
(近藤瓶城 編『史籍集覧 第二十六冊』近藤出版部、1902年、p.442・461。)
このように食事がとれないような体調不良が何度かあり、酒を飲むと吐く・尿が赤くて舌が黒い・脈が細かい(内傷)、全身黄色い・心臓の下が硬く腫れ痛い(黄疸)などと身体の異常が記載されており、その原因は曲直瀬も"酒疸"(=アルコール性肝硬変)と指摘し、当時の名医にも酒が原因と認識されていた。 - ^ BS-TBS『にっぽん!歴史鑑定』(2015年7月13日放送)より。番組内で出演した若林利光(医師・若林医院院長)の研究にもよる。
出典
- ^ a b c d e 斎木 & 岩沢 1968, p. 253.
- ^ a b 矢部健太郎「小早川家の「清華成」と豊臣政権」『国史学』196号、2008年。
- ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年、34頁。
- ^ a b 中野等「小早川秀俊の家臣団について」『戦国史研究』27号、2008年。
- ^ a b 本多博之「小早川秀秋発給文書に関する一考」『安田女子大学紀要』25号、1997年。
- ^ 本多 1997, p. 8.
- ^ 「宮窪町村上家文書」(『今治郷土史 資料編 古代・中世』今治市1989年639頁92-11号文書)西生浦在番人数帳。
- ^ a b c 本多 1997, p. 11.
- ^ a b 本多博之「豊臣政権下の博多と町衆」『西南地域史研究』11号、1996年。/所収:谷徹也 編『石田三成』戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 第七巻〉、2018年。ISBN 978-4-86403-277-3。
- ^ 堀越祐一「知行充行状にみる「五大老」の性格」『國學院大學紀要』48号、2010年。
- ^ 旧参謀本部『日本戦史』
- ^ 『関原軍記大成』、『改正三河後風土記』
- ^ 『黒田家譜』による
- ^ 藤本正行「関ヶ原合戦で家康は小早川軍に鉄砲を撃ち込ませてはいない」『歴史読本』特別増刊、1984年2月。
- ^ 三池純正『敗者から見た関ヶ原合戦』洋泉社、2007年5月。ISBN 978-4862481467。
- ^ 白峰旬『関ヶ原合戦の真実』宮帯出版社、2014年。
- ^ 渡邊大門「関ヶ原合戦における小早川秀秋の動向」『政治経済史学』599.600号、2016年。
- ^ 「中臣祐範記」9月15日条
- ^ 白峰旬「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について(その1)時系列データベース化の試み(慶長5年3月~同年12月) 」『別府大学紀要』57号、2016年2月、pp.113-123
- ^ 黒田基樹「第四章 小早川秀詮の備前・美作支配」『戦国期 領域権力と地域社会』岩田書院、2009年。
- ^ a b 木下家古写『系図』
- ^ 『関原軍記大成』
- ^ 三日前の慶長7年(1602年)10月18日、実兄で秀秋領に寄寓していた木下俊定も死去している。
- ^ 近世武家の世界・コラム
- ^ “小早川秀秋、関ヶ原の寝返り決断遅れは肝疾患のせい?”. yomiDr.. (2016年6月27日). オリジナルの2017年9月24日時点におけるアーカイブ。 2016年6月27日閲覧。
- ^ 大日本古文書家わけ第11(小早川家文書之1)514号文書
- ^ 慶長7年4月20日付小早川秀秋印判状
- ^ 西尾和美 著「第4章 豊臣政権と毛利輝元養女の婚姻」、川岡勉; 古賀信幸 編『西国の権力と戦乱』清文堂出版〈日本中世の西国社会1〉、2010年。
- ^ a b 太田 1934, p. 2357.
- ^ 断絶した小早川を毛利が再興、末裔はル・マンで優勝 - 週刊朝日 2014年10月31日号掲載
- ^ “【戦国こぼれ話】関ヶ原合戦後、無念の最期を迎えた石田三成の気骨あふれる魂の言葉とは(渡邊大門)”. エキスパート. Yahoo!ニュース (2021年10月18日). 2024年5月9日閲覧。
小早川秀秋と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 小早川秀秋のページへのリンク