天覧相撲 昭和天皇観戦の逸話

天覧相撲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/22 23:26 UTC 版)

昭和天皇観戦の逸話

昭和天皇は相撲ファンとして知られ、観戦時のエピソードも多い。

  • 明治時代末期、迪宮(当時)・淳宮(のちの秩父宮)・光宮(のちの高松宮)の三兄弟一緒に旧両国国技館で何度か本場所を観戦した(ただし、即位以前なので天覧ではなく"台覧")。なかでも1912年(明治45年)5月場所3日目、横綱太刀山前頭5枚目・千年川の一戦は千年川が延々1時間半以上、30数回「待った」を繰り返したため(勝負は二突きであっけなく千年川の負け)、16時の帰還時刻の予定が大幅に遅れたという。
  • 1964年(昭和39年)5月場所13日目、戦後10回目の天覧相撲で初めて双眼鏡を持参する。
  • 1971年(昭和46年)、相撲協会は初場所から、天皇がもっと土俵の近くで観戦出来るよう蔵前国技館の正面桟敷席の最前列に貴賓席を設置したが、宮内庁から警備上の問題で中止の要請があった。このため5月場所8日目の天覧相撲では従来の2階貴賓席からの観戦となった。結局、桟敷席の貴賓席は使われることはなかった。
  • 1972年(昭和47年)9月場所8日目の天覧相撲において、幕内土俵入りの際力士紹介の順序を間違えた場内放送に気付いた昭和天皇はすぐに武蔵川理事長に指摘。このほかにも、決まり手の発表を聞いた昭和天皇が「今のは○○ではないのか」と言った直後に決まり手訂正の放送がされたこともあった。
  • 1975年(昭和50年)5月場所8日目、前頭筆頭・富士櫻小結麒麟児の対戦に身を乗り出す。天覧相撲用のとっておきのとして重宝され一般客の間でも非常に人気が高かった両者の対戦の中でも特に評価が高く天皇も絶賛、昭和屈指の名勝負として語り継がれている。
  • 1977年(昭和52年)5月場所8日目の天覧相撲から宮内庁長官、総務課長らのお供がなくなる。
  • 1978年(昭和53年)9月場所6日目の天覧相撲より結びの一番後の弓取式まで観覧する。
  • 1988年(昭和63年)9月場所8日目に天覧相撲を予定していたが、宮内庁は「陛下が発熱のため取り止める」と発表した[4]。従って昭和天皇最後の観戦は1987年(昭和62年)5月場所7日目(両国国技館)、戦後からちょうど40回目の天覧相撲だった。なお、昭和天皇は1989年(昭和64年)1月7日崩御しており、本来であれば1月8日(この日より平成元年)より開始する予定とされていた1月場所は服喪のため翌1月9日より1日順延する形で行われている。

  1. ^ 2019年(平成31年)の初場所における平成最後の天覧相撲においては、天皇・皇后が退席の際、観衆が自然発生的に万歳を行った。
  2. ^ a b 大空出版『相撲ファン』vol.06 p102
  3. ^ 風見明『相撲、国技となる』(大修館書店) p81-83
  4. ^ この翌日(1988年9月19日)に昭和天皇は大量の吐血をして最後の闘病生活に入った。


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