大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国 政治

大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/31 05:53 UTC 版)

政治

1977年以後の大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国は人民主権に基づく直接民主制を宣言し、ジャマーヒリーヤと呼ばれる独特の政体をとる国家であった。成文憲法は存在せず、1977年に制定された人民主権確立宣言が、その機能を果たした。またイスラム法も、主要な法の源とされていた。

1969年以来、アラブ社会主義連合による一党独裁体制が敷かれていたが、1977年をもって同党は解散し、党の権能はそのまま国家機関へと移行した。以来、政党は存在しなかった。

大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国は直接民主制を標榜する国で、建前上国民の代表からなる議会は存在しないが、事実上それに代わる仕組みとして全国人民会議(General People's Congress)が置かれていた。議員は内閣に相当する全国人民委員会各書記(大臣)のほか、各マハッラ(町)、シャアビーア(県)、学校や職場などに置かれている人民委員会などから法律で役職指定されており、2006年時点で1000名前後。法律上、リビアに元首は存在しないが、外国大使の信任状の接受は全国人民会議書記が行う事と定められており、同書記が事務的には元首代行の役割を担っていた。なお、基礎人民会議には、原則18歳以上の全成人の参加が義務づけられており、年数回の会期中は市内の商店も閉店を余儀なくされたが、実際に会議に参加するのは政権に忠実な一部国民に限られ、そこでの討議内容もあらかじめ定められ不規則発言は許されなかった。

内閣に相当する全国人民委員会のメンバーは、全国人民会議において選出され、首相に相当する役職は全国人民委員会書記だった。

最高司法機関は最高裁判所で、その下に高等裁判所、第一審裁判所が存在した。また、国の治安に関する事案を扱う特別裁判所として人民裁判所が置かれていたが、後に廃止された。なお、多くのイスラム国家同様死刑制度があった。

国内外には、民主主義政権確立を目指すリビア民主運動リビア国民連盟、カッザーフィー政権打倒そのものを目的とするリビア救済国民戦線、そして過激派テロ組織イスラム殉教者運動まで、さまざまな目的をもつ反政府組織があった。反政府勢力結集の動きもロンドンを中心に見られたが、王党派(イドリス国王の弟の孫が王位継承者)からイスラム過激派、民主主義派まで思惑は様々であり、内戦勃発まで長らく反政府勢力の影響力は限定的とみられてきた。

最高指導者

ムアンマル・アル=カッザーフィー

直接民主制であるジャマーヒリーヤの建前の上からはリビアには国家元首は存在しないことになっていた。1969年9月1日の革命以来革命指導者の称号を持つムアンマル・アル=カッザーフィーが事実上の最高指導者であり、なおかつ国政の実権を握っていた。ただし、公的な役職には1970年代半ばから就いていないことから全国人民会議などの公の会議には出席せず、会議後、会議出席者の「要請」を受ける形で国民への「助言」として事実上の施政方針演説を行った。カッザーフィーは1990年代、パンナム機爆破事件の容疑者引き渡し問題で当時の国連コフィー・アナン事務総長と会談した際、「私は大統領でも首相でもないので、(容疑者2人を)引き渡す権限がない」と発言した。

なお、「革命指導者」であるカッザーフィーは、各国のマスコミなどでは一般的にカダフィ大佐と呼ばれており、事実上の最高指導者が「大佐」であることに違和感を持つ向きもあった。カッザーフィーが「大佐」と呼ばれている理由については諸説がある(ムアンマル・アル=カッザーフィー#名称表記の項を参照)。

日本国天皇とカッザーフィーが慶事等で祝電・答電を送り合う場合、日本語では「リビア国革命指導者カダフィ閣下」と表記された。

2009年10月、カッザーフィーの次男のサイフ・アル・イスラームが「人民社会指導部総合調整官」に任命され、有力な後継者となった。


  1. ^ a b https://web.archive.org/web/20110523163149/http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/libya/data.html
  2. ^ チュニジアの騒乱は周辺国へ波及するのか BTMU Focus London 本多克幸より引用
  3. ^ 報道された映像はすべて反政府関係者数人がカメラの前を覆うものであった
  4. ^ “リビアの全土解放を宣言 国民評議会”. 朝日新聞. (2011年10月24日). http://www.asahi.com/special/meastdemo/TKY201110230484.html 2011年10月24日閲覧。 
  5. ^ アーカイブされたコピー”. 2011年2月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年2月25日閲覧。
  6. ^ http://www.unic.or.jp/security_co/res/res1973.htm
  7. ^ 「依然としてリビア当局による自国民に対する著しい暴力が継続していることを強く非難するとともに,多くの死傷者が出ていることを強く懸念」し、「ムアンマル・アル・カダフィ革命指導者をはじめリビア当局が,リビア国民に対する暴力をただちに停止するよう強く求め」、「今般の決議は,リビア当局に対する国際社会の明確かつ強いメッセージであり,日本政府は,リビア当局が決議をただちに遵守することを強く求め」るとの[1]
  8. ^ AFP通信が24日、ミスラタの医師の話として伝えたところによると、18日以降で109人が死亡、1300人以上が負傷したという。(2011年3月25日09時27分 読売新聞)





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