夏見廃寺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/08 04:44 UTC 版)
概要
伊賀地方南部、名張川右岸の丘陵(男山)南斜面に位置する。1946-1947年(昭和21-22年)、1984-1986年度(昭和59-61年度)に発掘調査が実施されている。
主要伽藍として金堂・塔・講堂・掘立柱建物の遺構が検出されており、斜面上段において金堂を中央、三重塔を東に配し、斜面下段において講堂を西、掘立柱建物(僧房か)を東に配する変則的な伽藍配置である。発掘調査によれば、金堂は白鳳期の7世紀末葉頃、塔・講堂は奈良時代の8世紀前半頃に建立され、平安時代の10世紀末葉頃に焼失したと推定される[1]。『醍醐寺本薬師寺縁起』の記述から、当時の寺院名は「昌福寺」であったと推定される。特に金堂の特異な建築様式、各種の塼仏の出土の点で注目され、中央との結びつきを物語るとして重要視される遺跡になる[1]。
寺域は1990年(平成2年)に国の史跡に指定され、出土塼仏・塑像は2003年(平成15年)に三重県指定有形文化財に指定された[2]。現在は名張中央公園内に位置し、史跡整備のうえでで公開されている。
歴史
古代
夏見廃寺の創建に関しては、『醍醐寺本薬師寺縁起』(平安時代後期)の「大来皇女、最初斎宮、以神亀二年奉為浄御原天皇建立昌福寺、字夏身、本在伊賀国名張郡」という記載が知られる[3]。この「昌福寺」が夏見廃寺跡にあたる可能性が高いとされ、天武天皇皇女の大来皇女(初代斎王)による発願によって神亀2年(725年)に完成したとされる[3][1]。名張は畿内の東限とされる重要地であり、大来皇女が飛鳥浄御原宮から東海道を通って斎宮に向かう際には名張川で禊をおこなったという[1]。ただし朱鳥元年(686年)の大津皇子自刃後の大来皇女は財力・権威を失ったとして、建立の中心人物は元明天皇であって大来皇女・大津皇子を弔うために発願をし、遺志を継いだ元正天皇の時に完成したとする異説も挙げられている[3]。
発掘調査によれば、金堂は7世紀末葉頃(塼仏の1つに甲午年(持統天皇8年(694年))銘)、塔・講堂は8世紀前半頃に建立され、10世紀末葉頃に焼失したと推定される[1]。
近代以降
近代以降については次の通り。
- 1937年(昭和12年)、瓦・礎石の確認。古代寺院跡と推定[4]。
- 1946-1947年(昭和21-22年)、発掘調査(京都大学考古学教室)[3][4]。
- 1984-1986年度(昭和59-61年度)、史跡整備に伴う発掘調査(名張市教育委員会)。
- 1990年(平成2年)3月8日、国の史跡に指定[5]。
- 2003年(平成15年)3月17日、出土塼仏・塑像が三重県指定有形文化財に指定[2]。
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