夏見廃寺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/08 04:44 UTC 版)
遺構
寺域は東西約84メートル・南北約75メートル[6]。丘陵斜面に位置し、南側は掘立柱塀、東・北・西側は築地塀をもって区画する。地形の制約上、寺域の北寄り(上段)において金堂を中央、塔を東に配し、南寄り(下段)において講堂を西、掘立柱建物を東に配する変則的な伽藍配置である。遺構の詳細は次の通り。
- 金堂
- 本尊を祀る建物。基壇化粧は川原石による乱石積。基壇上建物は身舎・庇とも桁行三間・梁間二間の特異な建築様式になる。古い金堂の建築様式とされ、類例として山田寺跡(奈良県桜井市)金堂・穴太廃寺跡(滋賀県大津市)再建金堂[6]が知られる。また金堂正面の斜面には川原石積の階段が形成される。現在は礎石として側柱列10個・入側柱列10個の計20個が遺存する。付近からは各種の塼仏が出土している(後述)[1]。
- 塔
- 釈迦の遺骨(舎利)を納めた塔。基壇は一辺11.25メートル・正面高さ1.3メートル。基壇化粧は川原石による乱石積。基壇上建物は高さ21メートル前後の三重塔と見られ、等間隔の三間四方で一辺約5.3メートル。基壇中央に心礎、心礎周囲に側柱の礎石が遺存する。心礎上面には円形の舎利孔が穿たれる[1]。
- 講堂
- 経典の講義・教説などを行う建物。金堂・塔の一段下、金堂の南西に位置する。基壇化粧は川原石による乱石積。基壇上建物は南北を棟方向とする桁行七間・梁間四間の大型建物で、南北20.4メートル・東西11.4メートルを測る。内陣には「コ」字形の須弥壇が検出されている[1]。
- 掘立柱建物
- 金堂・塔の一段下、講堂の正面に位置する。周囲には基壇状に川原石が積み上げられる。建物は南北を棟方向とする桁行五間・梁間二間である。僧房と推定する説がある[1]。
丘陵斜面に位置することから、各基壇は斜面上部を削り斜面低部に積み上げることで整地される。また寺域を囲む塀のうち東・北・西側の築地塀は、基底部幅1.8メートルを測り、本来の高さは3メートル前後であったと見られる[1]。東・西側では両側に素掘りの側溝が、北側では山側のみに側溝が設けられる[1]。瓦の出土が少ないことから、築地塀の上部は板葺と推定される[1]。
寺域からの出土品としては、多量の瓦のほか塼仏・塑像などがある。軒先瓦の様相によれば、金堂と塔・講堂には時期差が認められており、金堂は7世紀末葉頃、塔・講堂は8世紀前半頃の建立と推定される[1]。塼仏は、型に粘土を押し当てて作成したレリーフ状の仏像で、大型塼仏・方形三尊塼仏・小形独尊塼仏・連座塼仏の6種類がある。金堂の建物周囲から主に出土したことから、金堂の壁面装飾品とされる。一部の表面には金箔が遺存するほか、「甲午年」銘を持ち持統天皇8年(694年)の製作と推定されるものがある。また新田部親王(大来皇女異母弟)の邸宅跡(現在の唐招提寺)において、夏見廃寺と同型の塼仏が出土した点で注目される。塑像は、講堂の須弥壇床面から破砕した状態で出土している。全体像は明らかでないが、螺髪・足の指・天衣(推定)が部分的に認められ、一部には赤色顔料が遺存する。出土した塼仏・塑像516点は、飛鳥時代-奈良時代初頭の仏教文化を研究するうえで貴重な資料とされ、三重県指定有形文化財に指定されている[2][1]。
主要伽藍には火災痕が認められており、出土土器によれば10世紀末葉頃に焼失したと推定される[1]。
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金堂礎石
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塔礎石
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塔心礎
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講堂跡
中央に須弥壇。 -
掘立柱建物跡(推定僧房跡)
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築地塀跡
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掘立柱塀(復元)
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塑像仏(螺髪・足指先)
夏見廃寺展示館展示(他画像も同様)。 -
大型多尊塼仏
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須弥壇塼仏
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方形三尊塼仏A
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方形三尊塼仏B・独尊塼仏A
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独尊塼仏B
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連坐塼仏・独尊塼仏C
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檫管
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金堂創建瓦-1
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金堂創建瓦-2
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塔・講堂創建瓦
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補修用瓦
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須恵器坏・土師器皿
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円面硯
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異形土師器壺
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