善楽寺 歴史

善楽寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/13 16:01 UTC 版)

歴史

寺伝によれば、大同5年(810年空海(弘法大師)が高鴨大明神(土佐国一宮で現在の土佐神社)の別当寺として、神宮寺とともに創建したといわれている。また、空海はこの辺りの森厳幽遠なる霊域を気に入り渓谷が百谷あれば入定の地に定めようと谷々を調べたが99谷で足りない1つを当寺を開くことにより1山補い、山号を百々山と名付けたと伝えられている。応仁年間に兵火で焼失したが、土佐藩2代藩主山内忠義の庇護を受けて栄えた。

『四国辺路日記(澄禅1653年巡拝)』には観音院(本尊十一面観音)と記されているが、万治元年(1658年)に長福寺と改名、そして『四国遍礼霊場記(寂本1689年刊)』には一宮本殿への参道の向かって右に長福寺、左に神宮寺が描かれていて、この時点での札所は「一宮百々山神宮寺」であり、本尊は阿弥陀如来、脇仏は観音と勢至であった。享保6年(1721年徳川家重の幼名(長福丸)をはばかって善楽寺と名称が変更され、『四国遍礼名所図会(1800年刊)』によると神宮寺は衰退し、当寺は参道中ほどより入る中門を通じて立派な方丈と大きな護摩堂と大師堂を有す祈祷寺として隆盛し、天保12年(1841年)の納経帳によると、神宮寺の方では「奉納 本尊阿弥陀如来 土佐一之宮別当神宮寺」で、当寺は「奉納 正一位高賀茂神社 一之宮善楽寺」と揮毫し、両寺で「四国三十番」の朱印を押して納経をするようになっていた。

明治初期の神仏分離により共に廃寺となるが、その際、神宮寺を善楽寺に合併させ、続いて善楽寺を廃寺とするという措置がとられ、仁王像は24番札所最御崎寺に移され、札所権と神宮寺の本尊であった阿弥陀如来坐像(重要文化財)と善楽寺の弘法大師像は29番札所国分寺に移され国分寺で納経を代行するようになった[1]。なお、護摩堂不動明王像の所在はそれ以降不明となっている。

1875年明治8年)当地より南西5.5 kmの所に再興された安楽寺に、その阿弥陀如来像が移され30番札所となった[1]。神宮寺は再興されず、善楽寺は1930年昭和5年)に埼玉県与野町(現さいたま市中央区)にあった東明院をこの地に移転し、また国分寺に預けられていた弘法大師像を移し、本尊は有縁の江戸期作の阿弥陀如来坐像を迎えて30番札所東明院善楽寺として再興した[1]が、30番札所が再び2箇所並立することになり、30番札所の正統性について善楽寺と安楽寺の間で論争が起こった。1964年昭和39年)四国開創1150年を機に両寺代表が協議し、善楽寺を「開創霊場」、安楽寺を「本尊奉安霊場」と称することになるも混乱は続いたが、1994年平成6年)1月1日、札所は善楽寺、安楽寺は奥の院とすることで最終決着した[2]

2016年(平成28年)7月、父である住職の跡を継いで当寺では初で、当霊場では5人目の女性住職(当時32歳)が誕生した[3]


  1. ^ a b c 鉄道省 1937, p. 173.
  2. ^ 櫻井恵武『四国遍路八十八の本尊』日本放送出版協会、2002年、70頁。 
  3. ^ 他の女性住職はこの時点で、13番大日寺・54番延命寺・73番出釈迦寺・79番天皇寺
  4. ^ 最御崎寺で修繕したとき新しい手に替えられたため保存されていたものを150年ぶりに返還された


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