古角俊郎 古角俊郎の概要

古角俊郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/06 00:38 UTC 版)

古角 俊郎
Toshiro Kosumi
基本情報
国籍 日本
出身地 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町
(当時の勝浦町
生年月日 (1921-07-19) 1921年7月19日
没年月日 (2013-01-08) 2013年1月8日(91歳没)
選手情報
ポジション 外野手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

和歌山県立海草中学校を経て明治大学を卒業。海草中学在学中の1939年には、第25回全国中等学校優勝野球大会で全国優勝を果たした。指導者としては、巨人阪神の間で争奪戦となった左腕投手・前岡勤也を育てたことでも知られる。新宮高校で指導を受けた者からは古角御大と呼ばれる[2]

甲子園大会優勝まで

古角は現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町(当時は勝浦町)で、旅館「なぎさや」を営む古角俊一の長男(他に弟が3人)として生まれた。古角俊一は、のちに勝浦町の町長を務めている。

古角は勝浦尋常小学校3年から野球を始め、当初は三塁手投手であった。和歌山県立新宮中学校に入学したものの、野球の強い和歌山市の中学に移りたいと考えていた。この時、「なぎさや」に逗留していた化粧品セールスマンが海草中学に伝手があり、これを通じて海草中の門を叩くことになった。1936年に新宮中学から海草中学に転校。和歌山県の南部は鉄道の敷設がかなり遅れた地域であり[3]、勝浦港から大阪商船の那智丸で8時間かけ、和歌浦港に深夜2時に到着。和歌山市での寄宿先となる丸山家に向かった。丸山家は紀州徳川家御典医の流れで、当代も医師であった。海草中に転校した古角は、チームメイトとなる嶋清一と同級になり、優勝時のメンバー・真田重蔵1938年に入学してくる。

古角が転校した時の海草中は、監督が長谷川信義(京都第二中学校~明治大学)に交代したばかりであった。これは長谷川の先々代監督の谷澤梅雄が明治大学卒で、その指示からであったという。古角は転校翌年の1937年、正中堅手三塁手の座を掴む。1938年に長谷川が応召、明治大学野球部監督となっていた谷澤梅雄の推薦で、明治大学在学中の杉浦清中京商業~明治大学)が臨時監督となった[4]

迎えた最終学年の1939年の第25回大会で、嶋清一の5試合連続完封、うち準決勝、決勝を連続ノーヒットノーランするという活躍もあり、優勝を果たした。古角は一番・中堅のリードオフマンであった。

明治大学入学から新宮高校監督就任まで

1940年、同僚の嶋清一とともに明治大学に入学(のちに1級下の遊撃手・竹尻太次も入学)、監督は元海草中監督の谷澤梅雄であった。しかし厚い選手層の明治大学ではなかなか正選手になれなかった(1941年は8試合に左翼手として途中出場した)。1942年、正中堅手の座を掴み、春のリーグ戦優勝に貢献した。古角の外野守備力は、のちに島岡吉郎明治大学硬式野球部監督が高田繁を指導していた当時、「昔古角、今高田」と言わしめた[5]

1943年学徒出陣により海軍に入隊。当初は呉海軍航空隊、のちに土浦海軍航空隊大井海軍航空隊松島海軍航空隊と配転されて終戦を迎えた。なお、嶋と竹尻は学徒出陣し、戦死している。明治大学卒業後は、ノンプロの庄保商店という金属会社で選手を続けたが、いずれ家業を継ぐことから、郷里に戻った。


  1. ^ 嶋投手の同僚、古角俊郎氏が死去 旧制海草中の中堅手 - 47News共同通信)2013年1月9日
  2. ^ 田中弘倫、2005年、5ページ。「部員は古角監督と言わずに『御大』と呼んでいた」とある。著者は古角の指導を受けた人物。著者の1級下の前岡勤也が195 - 198ページで古角のことを述べる談話では、冒頭を含めて都合6回「御大」と述べ、「監督」と呼称したのは2回。
  3. ^ 紀勢本線が和歌山から紀伊勝浦までつながったのは、古角が明治大学に進学した1940年である。
  4. ^ 山本暢俊、2007年、44ページ。これは海草中が1937年夏・1938年春と2度続けて甲子園で中京商業に敗退したことで、中京商業の野球を知る指導者を海草中野球部が欲したこともその理由であった。また、「臨時」であったのは、当時杉浦が在学中で和歌山に常駐できなかったためである。
  5. ^ 田中弘倫、2005年、241ページ
  6. ^ “甲子園出場校の監督が他校のノック!? 新宮・古角氏 ノックが苦手な明治・島岡監督に代わり実施”. Sponichi ANNEX. スポーツニッポン新聞社. (2017年3月9日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2018/03/09/kiji/20180309s00001002159000c.html 2018年3月9日閲覧。 
  7. ^ a b c 田中弘倫、2005年、7 - 12ページ、237ページ。このうち、7 - 12ページは古角自身が寄稿した「日本一のタマ拾いになれ」という文章である。
  8. ^ 嶋 清一氏 野球殿堂入り表彰式開催 - 野球殿堂博物館(殿堂ニュース)
  9. ^ 元新宮高校野球部監督・古角俊郎さんをしのぶ会 - 和歌山放送ニュース(2013年1月23日)


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